昭和の名車「2代目ソアラ」を生んだ白洲次郎の深すぎる”自動車愛”と、豊田章一郎との《泣ける交流》
その後、送られてきた手紙には5つの問題点が書かれていた。
ハンドルやステアリング、乗り心地などに触れられていたが、岡田にとって一番耳が痛かったのは、バッテリー容量の少なさに対する指摘だった。これは、他のお客さんからも意見が寄せられていた。
岡田は、次郎が只者でないことを知った。そして次郎と岡田の交流が始まった。
白洲家では、岡田のことは「ソアラの岡田さん」で通っていた。次郎はしょっちゅう岡田のことを話した。まるで、オイルボーイといわれた若い頃を思い出したかのように嬉しそうだった。
岡田は、次郎からのアドバイスで覚えている言葉がある。
「新しく設計し、そして作るのであれば、"ノー・サブスティチュート(No Substitute)"、つまりかけがえのないクルマだよ」
この言葉は、岡田の心を強く打った。
2代目ソアラの完成を見ずに亡くなった次郎
そして、完成した2代目ソアラは、初代を上回る大ヒットとなった。しかし、そのソアラを次郎は見ることはなかった。できたときに、すでに次郎は他界していたのだ。
次郎が亡くなった翌年、次郎の妻、正子は初めて岡田に会っている。そのときのことを正子はエッセイ「ソアラの縁」(鶴見絋『白洲次郎と日本国憲法』序、ゆまに書房)に書いている。
「直接お目にかかったのも、実は主人が死んだ翌年のことだった。豊田章一郎氏のご招待で、ソアラの工場を見に行った時、昼食の席で紹介されたが、私にとってそれは忘れることのできない感動的な出来事であった。
豊田さんが言われるには、
『白洲さんにうるさく言われていたソアラの改造が、ほぼ理想どおりにできました。ついてはお墓参りに新しいソアラを持って行って報告したい』
というのである。白洲は若いときから車が好きだったが、そんなにソアラに深入りしているとは知らなかった。それにつづいて岡田さんも、
『見ていただけなかったのが残念です』
と、何度もくり返しながら涙をこぼされた。