「内なる世界」は、とても脆いものでできており、清浄さを保つことが難しい。世の中の急激な変化に不気味さを感じ、自尊感情を高めるための緊急の措置を必要としている保守的な傾向を持つ人々は、往々にしてルーツに対する崇敬によって歴史の連続性を取り戻そうとする。
神谷氏は、自身の著書で「目に見えないもの」を大切にするのが政治だと自説を展開している。「スピリチュアルを怪しく思う人が多いですが、僕は日本人が昔から大切にしてきた先人の想いや歴史と文化といった形のないものを現代の僕たちがつないで、より具現化していくことが本当の政治だと思っています」と断言している(吉野敏明・神谷宗幣『国民の眠りを覚ます「参政党」』青林堂)。
このような基本姿勢は、党の綱領にある「先人の叡智」「日本の精神と伝統」という文言にも表れている。支持者が、そこに思い思いのイメージを投影していることはほぼ間違いないだろう。
そして、そこにおいて、日本または日本人という想像的なカテゴリーの境界と、個々の精神の防護壁が皮膚感覚において一致するのである。
「ソフトな保守層」の生活感覚との合致
これは実のところ、「このままでは日本はおかしくなるのではないか」と懸念せずにはおれない「ソフトな保守層」の生活感覚ともおおむね合致している。
外国人労働者の増加といった分かりやすいものだけではなく、食糧や医療といった細胞レベルで忍び込んでくるもの、戦後教育の歪みなど思考レベルで作用するものなど、ありとあらゆる領域で「よそ者」の気配に警戒感を募らせ、身近な脅威として感じているからである。
自分たちの慣習に従わない、異なる文化圏に属する人々(または物質や価値観)が慣れ親しんだいつもの風景を塗り替えつつある――ここには、神聖なものを守ろうとする心性が潜んでいる。神聖なものとは何か。何ものにも汚されない自己の心身である。これは文字通り自然崇拝的な志向と親和性がある。
党のスタンスとして、反ワクチン的な傾向を隠さないのは、海の物とも山の物ともつかぬ最先端の薬剤を身体内に入れたくないという異物への拒否反応に、国家の安全保障を脅かす外国勢力に対する拒否反応と同じアラートの“正しい”作動をみているためだろう。
しかも、コミュニティや人間関係が脆弱になる流動化が著しい世界では、身体は最後の砦となり、過度に聖域化され、健康への関心は総じて高まりやすい。
かつて社会学者のウルリヒ・ベックが提唱した「危険社会には、『不平等』社会の価値体系に代わって、『不安』社会の価値体系が現れる」というテーゼは、容易に「不安からの連帯」が立ち上がることを示している(『危険社会 新しい近代への道』東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局)。
ベックは、その背後にある「自分が直接曝されている危険がどのようなものか評価する主権をも喪失している事実」を重くみた。もはや様々なリスクに無防備であることが避けられないからだが、これは結果的に主権の喪失を主観の優越で埋め合わせる傾向を促進することになった。
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