《北斎が描いた蔦屋》暴力的なまでの画力を誇る“画狂”葛飾北斎と蔦屋重三郎の通説を覆す関係とは

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それが初代・蔦屋重三郎により出版された「仁和嘉狂言」シリーズ(例えば七月盆踊り)(1793年)です。北斎30代の仕事であります。重三郎は40代となっていました。

▼「仁和嘉狂言」七月盆踊り

The Seventh Month: The Bon Festival Dance
The Seventh Month: The Bon Festival Dance(画像:ボストン美術館)

※外部配信先では画像を閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください。

絵には「春朗画」とあり、4人の女性が踊るさまは躍動感にあふれています。4人の女性がそれぞれ2人ずつ顔を見合わせて踊っているのも息がぴったり感が出ていますし、踊りの楽しさというものが伝わってきます。

《蔦重×北斎》見直される“通説”

北斎と蔦屋との関係を示す興味深い資料としては狂歌絵本『東遊』があります。この絵本は蔦屋から寛政11年(1799)に出版されています(同本から絵のみを抜き出し彩色摺りにして刊行したものが『画本東都遊』。よって『東遊』の絵は墨絵です)。

重三郎が亡くなった2年後のことです。蔦屋は番頭だった勇助が継承していました(勇助は2代目・蔦屋重三郎となります)。

さて『東遊』の1図に「絵草紙店」がありますが、何とその中には耕書堂――つまり重三郎の書店(耕書堂は屋号)が描かれているのでした。

重三郎(2代目)は自分の店の様子を40手前の北斎に描かせたのです。北斎と重三郎(1代目)との関係はどちらかというと薄く、この2代目との関係のほうが濃いともされてきました。しかし実際には初代・蔦重のもとでも北斎はそれなりの数の仕事を請け負っていたこともわかってきており「通説」も見直されようとしています。

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