「埋め立てられたのは100年前」「昭和は造船工場だった」…。若い家族が選ぶタワマンタウン・豊洲で「ららぽーと」が果たした役割

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豊洲
かつてIHIの造船工場が存在したり、セブン‐イレブンの1号店の地としても知られる豊洲。街のイメージを変えた「アーバンドック ららぽーと豊洲」が果たした役割は大きい(筆者撮影) 
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「ここがかつて造船工場だったなんて、今では知らない人も多いんだろうな」 豊洲の街を歩いていると、東京がいかに変化し続けてきた街なのかを実感させられるーー。 
街を、大きく変える力を持つ商業施設。人口を増やし、新たなビジネスを生むだけでなく、街のイメージや地価までも変化、向上させてしまう。 
そこで本連載では毎回、さまざまな街にある商業施設を、「どのようにして街を変えたか」という観点からレポート。多様な観点から「街づくり」について考えていく。 

豊洲の街がつくり始められたのはわずか100年前 

前編では、「アーバンドック ららぽーと豊洲」には、かつて存在した造船工場の歴史が刻まれていると紹介した。現在ファミリーでにぎわう豊洲は、どのような街であったのか。豊洲の歴史を振り返ってみたい。 

豊洲が埋め立て地であることをご存じの方も多いと思うが、埋め立てられたのは大正末期の1923年。今からわずか100年ほど前のことである。関東大震災のがれき処理などを目的に埋め立てられた。 

1939年に東京石川島造船所(現・IHI)の工場が完成。これが現在の「アーバンドックららぽーと豊洲」につながっている。当時は研究所や作業員の宿舎なども建設された。 

「ドック広場」に残る「IHI」の文字(筆者撮影) 
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