様変わりした「渋谷の駅と街」昭和・平成の記憶 地上の東横線、ビルから飛び出すオレンジの銀座線
鉄道作家の宮脇俊三さんや檀上完爾さん、脚本家で鉄道に造詣の深かった関沢新一さんなど、多くの人々との交流が生まれたのもここだった。1988年に「オリエント急行」が来日した際はクルーの歓迎会を開いたこともある。近くにはかつて存在した鉄道雑誌『レールガイ』の編集部もあり、筆者は巻頭特集の写真を何度も撮影した。街を通じてさまざまな縁があった。
そのようなにぎやかな街が変化し始めたのは1980年代後半のバブル経済以降だった。それまで庶民の街だった桜丘町にも「地上げ」の波が押し寄せ、古くからの住民は相次いで立ち退いていった。小学校も1クラスのみとなり、やがて廃校になった。世の中が好景気に沸く中で、建物だけでなく文化や人のつながりがじわじわと破壊されていくのを感じていた。

住民から見た再開発は…
当時の近隣の人々との交流は今も続いているが、街はさらに大変貌を遂げてかつての面影はほとんどなくなった。どの出口を出ればどこに行けるといった頭の中に入っている地図がもはや通用せず、いまだに面食らってしまう。

渋谷の大規模再開発は、商業の観点や駅施設の改修といった観点から賛否が語られることが多い。実際に、さまざまな人が集まる街にしようと工夫していることはわかる。だが、かつての住民から見ると、再開発で最新のビル群に街が生まれ変わっていく中で、住んでいる人々が置いてきぼりを食らってしまったようにも感じられるのである。

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