【朝ドラ】あんぱんのモデル「やなせたかし」が"心優しいヒーロー"描いた背景 幼少期にもらったアンパンの思い出
1909(明治42)年に大日本雄弁会を設立した野間は、その翌年に『雄弁』を創刊。さらにその翌年に講談社を設立すると、『講談倶楽部』を皮切りに『少年倶楽部』『面白倶楽部』『現代』『婦人倶楽部』『キング』と次々に発刊。野間は「雑誌王」として名を馳せた。
やなせの父が、講談社の礎となる雑誌に携わっていたのは、実に興味深い。のちにやなせは、父の清が「文学と絵と雄弁は生涯やっていく」と意欲をつづっていたことを知る。
しかし、清の人生はまもなく幕を下ろす。1921(大正10)年4月、朝日新聞に招かれて記者になると、翌年には広東特派員を命じられて、単身で中国へ。赴任から1年半後、急病によって31歳の若さで死去する。やなせが5歳のときのことだった。
何時間でも飽きずに絵を眺めた
父が不在の間、やなせと弟の千尋は母の実家へと身を寄せていたが、父の死によって状況は一変する。弟の千尋は父の兄の家に養子として引き取られて、やなせは母と祖母とともに高知県内で暮らすことになった。
気性の強い母が「なんとか生活を支えていかなければ」と決意する背中を、幼いやなせは見つめていたようだ。やや行動が先走りがちな母の姿を、こんなふうにとらえている。
「母はやたらにいろんなことを習いに行きました。琴、三味線、謡曲、仕舞、生花、茶の湯、習字、洋裁、盆景、など。だが、その習い事は決して趣味というような生やさしいものではありませんでした。残された財産を使い果たさないうちに何とか自活しなくてはいけない、というせっぱつまった考えからでした」
快活で外向的な母とは対照的に、やなせは大人しい少年だった。絵を描くことが大好きで、祖母にはこう呆れられている。
「紙とクレヨンさえ持たせていれば、いつまでもひとりで遊んでいる。こんなに楽な子どもはいないよ」
また、やなせは絵を描くことだけではなく、絵を観ることにも夢中になった。雑誌の挿絵や絵本を何時間でも飽きることなく眺めていたという。
筆者には4人の子どもがおり、幼少期はみな絵を描くことに夢中になったものの、絵を観続けるという姿は目にしたことがない。のちに創作者として羽ばたく素養が、幼少期の「絵を観る時間」に培われたのではないだろうか。

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