「思考や感情」も物理法則によって説明できるのか 「自由意志」と決定論的で機械論的な科学の関係
主体性と統制に焦点を当てるという考え方と対立的にとらえるべきが、デネットが"自由意志のインフレーション"と呼んでいる風潮である。これはすなわち、ほとんどの議論において、自由意志がすべてであるか、さもなければ自由意志など存在しないと決めつけられていることを指す。
「自由意志がすべてである」という立場では、あらゆる状況に自由意志が当てはめられ、あらかじめ決定されているといえる事柄は何一つない。この立場にグリーンは反論して、物理(もっと言うと現実)は、行為主体が好き勝手に決定を下せるランダムな遊び場などではないと訴える。
事実、とりわけミクロスケールでは、あらかじめ決定された挙動を示すような物体が観察される。一方、「自由意志など存在しない」という立場では、自由意志の可能性を完全に排除して、(統制を伴わない)原因作用だけですべてを記述できると決めつける。この見方では、行為主体が出来事に影響をおよぼしうることは無視されている。
機械論的な説明の限界
デネットはこの対立を解消するために、人はすべての原因作用を統制することはできないものの、一部の原因作用は統制できると指摘している。そうだとすると、ときには自由意志を行使できるが、あらゆる事柄を統制することはできないため、つねに自由意志を行使することはできない。自由意志は、ときには持てるが、つねに持てるわけではないのだ。
このようにデネットは、主体性を原因作用の一カテゴリーとしてとらえることで、自由意志はすべてでもなければ、存在しないわけでもないと言い切った。だが一つ未解決問題が残っている。行為主体がどのようにして、そのような特別な因果的統制力を獲得するのかが不明なのだ。
グリーンは情報のパターンに関する考え方の中でそれに似た概念に触れているが、やはりその物理を機械論的に説明することはできていない。
(翻訳:水谷淳)
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