戦後になって「渡来人」の評価が一転した事情 過大評価?実にわかりにくい渡来人の実態
なぜなら、『日本書紀』などに見える渡来人に関する記述に、大きな誇張があるからである。渡来人の実態をつかむ手がかりとなる、確かな文献はない。
そのうえ渡来系の系譜を称する諸蕃のなかに、在来の中央豪族の流れを引く豪族がかなり見られるのである。
しかし、1970年代以後に、日本古代史の研究者によって渡来人の役割を強調する風潮が高まった。そのなかで、中国や朝鮮半島から渡来した文化の見られるところを、すべて渡来人の居住地とした研究が多く出された。
しかし、日本列島の住民が朝鮮半島に渡って、向こうの技術を日本に持ち帰った例もきわめて多数にのぼったろう。また、渡来人の技術者から新たな技術を学んだ者が、渡来系といわれる姓(せい)を名乗る例もかなりあったらしい。
権威を高めようとして渡来系の系譜を自称?
一つ例を挙げよう。
大和時代(古墳時代)の日本では、弥生式土器(やよいしきどき)と同じ技術を用いた土師器(はじき)という土器が広く用いられていた。そして四世紀末ごろ、朝鮮半島の新たな技術を使った韓式土器が出現し、ついで須恵器(すえき)(陶器)と呼ばれる陶質(とうしつ)の頑丈な土器が、広がり始めた。
須恵器の製造にあたった人びとは陶部(すえべ)と名乗っていたが、この陶部がすべて新たな移住者だったわけではあるまい。陶部の九割以上の人びとは、間違いなくもとから日本にいた人間であろう。
このような陶部の職人は、自家の権威を高めようとして渡来系の系譜を自称したと思われる。さらに、古くからいた日本の中小豪族が、自家は遠くの国の名門の流れを引く渡来系の豪族だと称した例も少なくあるまい。
あれこれ関連文献を調べていくと、渡来人の実態はじつにわかりにくいことが明らかになってくるのだ。
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