戦後になって「渡来人」の評価が一転した事情 過大評価?実にわかりにくい渡来人の実態
大王(おおきみたちや聖徳太子、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)、大海人皇子(おおあまのみこ)などの有力な王族と、蘇我(そが)氏、物部(もののべ)氏、大伴(おおとも)氏、中臣(なかとみ)氏(藤原氏)などの豪族が、あれこれ絡み合うのだ。渡来人をはじめとする中小豪族は、有力者に従う脇役にすぎない。
『日本書紀』は、渡来人が新たな技術や学問を中国や朝鮮半島から日本に持ち込んだとする伝承をいくつか記している。しかしその記事は、それほど重要なものとして扱われてはいない。だから戦前の日本古代史の研究者は、帰化人にそれほど注目してこなかった。
戦争直後の、日本古代史研究を代表する研究者の一人とされる関晃(あきら)氏が初めて、そのような渡来人(帰化人)研究のあり方に鋭い疑問を投げかけた。長文になるが、関氏の意見を紹介しよう。
「以前は日本人の固有の文化とか素質とかいうものを、何かむやみに高いものときめてかゝる風潮があって、帰化人のはたらきは、いかに大きなものだったにしても、結局はそういう固有のものの発展を外から刺戟(しげき)し、促進したにすぎないという見方が強かった。しかし実際は、彼らがその時その時に日本に持ち込んだ技術や知識や文物は、当時の日本のものにくらべて、桁(けた)ちがいに進んだ高度なものだった。そして、それによって初めて、日本の社会は新しい段階に足をふみ入れることもでき、また新しい精神的な世界を展開させることもできたのである。だから、彼らの持ち込んだものが、新しい時代の主人公となっていったと言っても言い過ぎではない」(関晃『帰化人』至文堂刊、1956年)
関氏はこのように、渡来人が持ち込んだ文化が、日本文化を大きく発展させたと評価したのである。そのあと日本古代史研究者の多くが、渡来人について関氏のような評価をとるようになった。
渡来人の役割を過大評価していないか
『日本書紀』などの記事では、渡来系の(渡来系と称した)豪族は脇役にすぎない。しかし、関晃氏は『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』という文献などを根拠に、渡来系の豪族の数が思いのほか多いことを指摘する。
そこからかれは、渡来人は「全体としては案外大きな数に上るであろう」(前掲の『帰化人』)としている。しかし同時に、関氏は、渡来人の実数がどれほどかは明らかにできないとする。
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