元公明党委員長への執拗な攻撃はなぜ起きた? 極秘資料からたどる「創価学会」の黒歴史③

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宗門が仕掛けた池田追放への戦いは一瞬にして全面戦争へと発展、1991年に破門された学会は独自路線を歩むこととなる。20年余りに渡って断続的に続いた宗門戦争に一区切りつけた後、第2・第3の山崎正友が出現することを恐れ、猜疑心に凝り固まる池田によるワンマン支配が極まった学会において起こったのは、大幹部に対する大小さまざまな攻撃だった。

池田に対する無条件の忠誠心が求められた

1998年に始まった竹入義勝に対する批判キャンペーンや、2005年に突如燃えわたった矢野絢也の吊るし上げという2人の元公明党委員長を仏敵と定めた猛烈な組織動員はその最たるものである。そこで試されたのは池田に対する無条件の忠誠心だ。中でも矢野攻撃は度重なる家探しまで実行された執拗なものだった。

以下、「第16章 竹入・矢野攻撃、そして最後の日々」から引用する。

(五月)十四日午後六時過ぎ、成田空港で帰国便から降り立った矢野夫妻を手荒く出迎えたのは創価学会の青年部メンバー十人ほどだった。矢野は容赦なくカメラのフラッシュを浴びせられた。まるでさらし者である。
そのまま(青年部幹部との面談のため)例の戸田記念国際会館に直行すると、玄関には長谷川(重夫・現理事長)が立っていた。
「売り言葉に買い言葉にならないよう気をつけて下さい」と注意点を話す長谷川は、こう続けた。「池田先生より何とか収めたらどうか、長谷川、間に入れ(と言われた)」――そんな話だった。そして、「池田先生は心配している」と、そのまま受け取るのが難しい意味深長な言葉を最後かけてきた。
「それはありがとうございます」
そう返事をした矢野は「些少なお土産です」と言い、池田のために買ってきた一ダースほどのネクタイを差し出した。(中略)
翌日から矢野の自宅には無言電話が入り始め、面識のない人物が突然訪れて面会を求めるようになる。
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