日産の暗闘史が示す「2度目の身売り」の背景 1999年の経営危機時と重なる既視感の正体

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

塩路氏失脚の結果、独裁色を強めた石原氏は、銀行借り入れによって海外企業の買収や提携を繰り返し、グローバルに事業を拡大させていった。一見正しい戦略のように思えるが、日産の債務は膨らむ一方だった。

元社長の石原俊氏。労使蜜月と決別し急速なグローバル化を推進(写真:時事)

石原氏はライバルの蹴落としにも固執した。北米市場で「ダットサン」ブランドを立ち上げ、1975年に北米で日産車を輸入車1位の地位に押し上げた米国日産会長の片山豊氏を、自身の社長就任と同時に放逐。成果を上げる片山氏が自分の地位を脅かす存在として映ったからだとみられている。石原氏は、片山氏が育てた「ダットサン」ブランドまでも消滅させた。

1985年のプラザ合意後の円急伸で、輸出比率が高かった自動車メーカーは構造改革を迫られた。日産は1986年、上場以来初の営業赤字に転落したが、バブル景気によって構造改革の進展は遅れた。1988年に発売した高級車「シーマ」の大ヒットも、石原路線の破綻を覆い隠すことにつながった。

1992年、石原氏が相談役に退く頃はすでにバブル崩壊後の景気低迷期で、いよいよ経営悪化が現実のものとなった。1992年度から1995年度まで4年連続で当期純損失を計上。有利子負債は2兆円を超えた。過剰な設備・負債・人員が顕在化し、1995年に神奈川県の座間工場の閉鎖を決めた。

ルノーからの資本を受け入れ

しかし「出血」は止まらなかった。1996年度はいったん黒字化したものの、1997年度には再び当期純損失に陥る。金融機関も、もはや日産支援どころではなくなった。1997年11月、北海道拓殖銀行と山一証券が倒産。湯水のように日産に資金を貸してきたメインバンクの日本興業銀行も自らの生き残りを模索する時代に突入した。

こうして1999年に倒産寸前の経営危機を迎え、ルノーから36.8%の資本を受け入れ、再建役としてカルロス・ゴーン氏が送り込まれた。

2000年、ゴーン氏の社長就任決定会見。CEOだった塙義一氏と握手を交わす(撮影:尾形文繁)
関連記事
トピックボードAD
ビジネスの人気記事