国鉄からのと鉄道まで「能登を彩った列車」の記憶 蒸気機関車や急行気動車、パノラマ車両が活躍
筆者は昭和50年代、元国鉄職員の作家・檀上完爾さんと共著のガイドブック『全国ローカル線の旅』(昭文社)の取材でも能登半島を訪れた。能登三井から穴水へ向かう勾配区間を描いた檀上さんの文章は名文だと思う。引用したい。
能登三井からの山は険しかった。上り勾配もいちだんときびしくなり、列車の速度は極端に落ちる。うっそうと杉林が茂りクマザサが密生する。杉木立のなかに白く彩られているのは満開のグリの花で、細く開けた窓から特有の甘い香りが車内に漂ってきた。木立の根かたには、やはり白い花をつけたドクダミがびっしり茂っている。
ここが胸突き八丁なのか、さらに速度が落ちる。時速10キロか20キロといったところだ。カーブも連続する。七尾線にこれほどの難所があったことには驚かされた。これまでも確か2度ほどこの線区に乗ったはずだったが、そのときは居眠りでもしていたのであろうか。モーターをフル回転させた列車はそれでもようやく頂点に達したのか、ぶるんと車体をひと揺すりすると、今度は慎重に下り勾配をたどりはじめた。線路わきの木立のかげに、ぽつんと石の地蔵が見え、肩を並べるように墓が1基建っていた。この山中にどういうわけなのであろう、その石の下の霊が気にかかる。長い峠越えを終え、やがて前方に穴水の町が遠望できた。
(『全国ローカル線の旅』昭文社・檀上完爾/南正時著より引用)
パノラマ気動車に沸いた時代
国鉄がJRに変わった1980年代後半から1990年代初頭にかけては、能登半島の鉄道も大きく変貌した。国鉄最末期の1986年12月には、特急「雷鳥」と併結して大阪―和倉温泉間を結ぶ特急「ゆぅトピア和倉」が登場した。新造のパノラマタイプの気動車を使用し、電車と気動車を連結して走る列車として注目を集めた。
1988年には能登線がJRから第三セクター・のと鉄道に転換された。さらに1991年にはJR七尾線の津幡―和倉温泉間が電化されて特急「雷鳥」などの乗り入れが始まり、同時に和倉温泉―輪島間の運行をのと鉄道が引き継いだ。
トピックボードAD
有料会員限定記事
鉄道最前線の人気記事
無料会員登録はこちら
ログインはこちら