渡邉は「1リーグ10球団」にすることで、巨人戦の「放映権」の恩恵をすべての球団にもたらそうと考えたのだ。それはすなわち「球界の盟主」としての巨人の地位を維持することでもあった。
正力松太郎が創設した「2リーグ12球団」という体制を、その後継者たる渡邉恒雄が終わらせようとしたのだ。
「たかが選手が」発言で1リーグ10球団構想は頓挫
この「球界再編」は、オーナー会議の賛同を得たことで、成功するかと思われたが、これに反対してストライキを打つ構えを見せたプロ野球選手会会長の古田敦也に対して渡邉が発した「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」発言によって、世論は一気に選手会側に傾き、渡邉の「1リーグ10球団構想」は頓挫することとなった。
渡邉はこの年、明治大学の好投手、一場靖弘をめぐる「栄養費」問題にかかわってオーナー職を引責辞任したが、読売グループ、巨人への影響力は衰えなかった。2011年には「清武の乱」で世間を騒がせるなど、相変わらずプロ野球界の頂点に君臨した。
渡邉と親しかったスポーツジャーナリストの江尻良文の著書「渡邉恒雄とプロ野球」(双葉社)には、「江川事件」が勃発した際に、渡邉は江川卓の巨人入り、小林繁の阪神移籍へ向けて奔走したと書かれている。当時まだ局長クラスだった渡邉がこの大事件にどこまで関与したかは疑問が残るが、「球界のフィクサー」として大きな影響力を行使したことをことさら強調したかったのではないか。
正力松太郎、渡邉恒雄、ふたりの「巨魁」を比較するとき、思い至るのは、正力が読売グループの勢力伸長を目指しつつも、つねに「社会、業界全体の繁栄」を意識していたのに対して、渡邉はひたすら「読売、巨人の覇権」のために働いたのではないか、ということだ。
1959年、「野球殿堂表彰」が始まると、正力松太郎はその第1号として殿堂入りした。プロ野球の経営者としては、大映スターズなどの永田雅一、日本ハムファイターズの大社義規が殿堂入りしているが、渡邉恒雄もそのリストに名前が載るのだろうか?
文中敬称略。
球界再編時の新聞各紙、および『球界再編は終わらない』(日本経済新聞社)などを参照した。
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