「M-1エリート」時代の幕開け?新たな伝説に期待 20回目のM-1 令和ロマンが史上初の2連覇に挑む
しかし、有名人の物まねをするのと、同じM-1の舞台で他のコンビがやったネタを再現するのとではやはり意味が違う。このときラパルフェは、ニューヨークの「完コピ」以外にもM-1の運営のこともネタにしていた。
結局こうしたことは、今年で20回目を迎えたM-1がパロディにされても大丈夫なほど揺るぎない地位を得た証しと解釈できる。
ニューヨークはその年優勝したわけではない。だが多くの視聴者は、そのときの2人のネタと松本人志とのくだりをよく覚えている。そのくらいM-1の注目度は高く、共通の記憶になっている。だからこそ、ラパルフェの「完コピ」漫才はネタとして成立したのだろう。
M-1が掲げた"真剣勝負"の意味
そもそもM-1は、どのようにして誕生したのか?
2001年、吉本興業の社員である谷良一は、当時低迷していた漫才を復活させるプロジェクトの責任者になった。
そんなある日、谷は島田紳助のもとを訪ねる。世間話がてらだったのだが、「漫才プロジェクト」の話に耳を傾ける紳助の表情は真剣で、いつしか2人は漫才について熱く語り合うようになっていた(谷良一『M-1はじめました。』)。
そして出たアイデアが、「若手の漫才コンテスト」の開催だった。だが似たようなコンテストはすでにある。そこで紳助が提案したのが、「優勝賞金1000万円」だった。当時、有名な漫才の賞でも賞金は50万円という時代。1000万円がいかに破格だったかがわかるだろう(同書)。
こうして、『M-1グランプリ』が誕生する。第1回の決勝は2001年12月25日。テレビ朝日系で生放送された。優勝は中川家。ここから現在の隆盛に至る道のりが始まった。
実は島田紳助には、漫才復興のほかにもうひとつの狙いがあった。それは、M-1を機に若手芸人に見切りをつけさせることである。M-1誕生の記者発表の場で紳助は、「今も、才能がないのに漫才を続けてるやつがいます。M-1はそんなやつらがやめるきっかけになると思います」(同書)。
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