「バカ野郎!」罵声が日常の9年半で得た1つの学び 伝説の落語家「立川談志」に最も怒られた弟子
でも。
いまから思い返すと、弟子たちの「気づかい」の中には、私たち日本人が忘れてしまった、何か大切なものがあったように思うのです。
人間関係が希薄化し、会社の隣の席の人ともチャットで話す現代。そんな時代において、あの厳格で濃密な「人間関係」のあり方は、いまはもう決して観察することのできない、ある種の「遺産」なのではないか。
もしもそうなら、談志への「狂気の気づかい」の記録を書き残しておくのも悪くないのかもしれない。
そんな思いから、本書を執筆することにしました。
伝説の落語家、立川談志
ここで、談志を知らない人のために、「立川談志はどんな人だったのか」をあらためてご紹介します。
談志とは、一言で言うのなら「旧態依然とした落語界を変えた天才」です。
そのポイントは3つあります。
1つ目はあの超人気番組『笑点』(日本テレビ系)をつくった人ということです。半世紀以上も継続する、あのお馴染みの大喜利スタイルの原型を、放送作家的な立場のみならずプロデューサー的アプローチから構築しました。
談志はその立ち上げにこそ深く関与しましたが、「飲酒運転がなぜいけないのか?」というお題に対して「人をはねたときの充実感がないから」と答えるなど、いまでは絶対放送できないブラックジョークを好む姿勢から、やがて距離を置くことになってゆきます。
2つ目は「国会議員」に当選したことでしょうか。
いまでこそ「タレント議員」が選挙のたびに生まれる時代ですが、談志はその初期の存在です。そして、その言動は常にセンセーショナルなものでした。
あるとき酔っぱらったまま記者会見に出て、記者団から「酒と公務とどっちが大切なのか?」と問い詰められて「酒に決まっているだろ」と答えました(よく調べてみますと実際はかような言動はなかったのですが、それに近い応対は間違いなくあったとのことです)。
そして、3つ目。
やはり何と言っても「立川流という独自の流派を1人でつくり上げたこと」でしょう。
1952年に高校中退の16歳で先代柳家小さん師匠門下に入門した談志ですが、その後1983年、真打ち昇進問題をめぐる諍いから落語協会を飛び出し、落語立川流を創設しました。設立当初の弟子である談春兄(あに)さんにその当時のことを聞くと、「うちの師匠ですら仕事がなかったんだよ」とのことでした。
かような冷遇の時期を乗り越えて数十年、いまや「志の輔・談春・志らく」という落語界を牽引するまでに育った弟子をはじめ、総勢60人を超える一大勢力となっています。
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