"北欧移住2年目"憂う心を癒やした「底打ちの森」 会社員時代に教わった「大切なこと」に救われた

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「ストレスフルな場面に対応するとき、ストレングスを発揮するだけでなく、実はレジリエンスに着目して鍛えることも同じくらい大切なんです」と、人事の先輩が教えてくれた。

そこで教わったのが「底打ちさせる」という概念だった。

人は困難な状況や逆境に直面したとき、ストレスや絶望感で一時的に最悪の状態"底"に達する。モチベーションやエネルギーは低下し、まるで暗い深海へ沈んだような気持ちになる。

けれど、海にも必ず「底」があるように、あらゆる負の感情にも必ず「底」という終わりがある。最も暗いその場所で、確かに自分の足が底を感じた「底打ち」の瞬間は、同時に最悪の状態からの回復プロセスが始まる瞬間でもある。

chikaさんイラスト
(画像:©️週末北欧部 chika/世界文化社)

「自分は"底"に到達した」。

その自覚を持てるかどうかが、とても大事なのだと先輩は言った。自分が底に達していることを認識できず、必要以上に長い間ストレスや絶望感を抱え続けることがあるためだ。

そんな教えが「ああ、私は今は底に到達したな。これ以上沈んでも先はない。十分沈んだし、ゆっくりと海面を目指そう。

力を入れずとも身体が水に浮かぶように、回復を努力するのではなく、ただ力を抜いて浮上しよう」という風に、「悩みを底打ちさせる」というレジリエンスを与えてくれた。

落ち込まないことは不可能で、落ち込まないようにすることも逆効果だ。それよりも心に沿ってちゃんと落ち込み、最悪の底まで到達し、地面を感じたら浮上する。いつまでも底で沈み続けることなく、「底打ちさせる」というプロセスの意識を持つことが、私が幾度も救われたレジリエンスだった。

「底打ちの森」と「悲しみの置きバー」

頼れる人が少ない場所で生きる時、レジリエンスは大きな味方になってくれた。

ある日森を歩いている最中「また同じことを思い出して落ち込んでいるけれど、私はもう底に到達しているよな」と自覚して、「これ以上下がることはない。周りに助言を求めながら、ここからは回復を目指そう」と決めた。

そしてその森を「底打ちの森」と名付け、「これ以上また悩みたいなら、この森に来て悩みましょう!」と自分にルールを課した。

底打ちした後も、悩みが思考を乗っ取る日もあるけれど、幸いその森はヘルシンキから数百キロも離れた旅先の森。

ヘルシンキの自宅で再び悩みそうになった時には「じゃあ……今からその森まで行きますか?」と自分に問い、面倒臭さが勝って思考を断念する……という繰り返しを経て、今ではその悩みを思い出したとしても、当時のように心が痛むこともなくなった。

また、レストランで働いていたときは、感情的な疲れを伴う日もあった。そんな疲れた日には、決まって家に帰る前にヘルシンキ駅近くの深夜まで営業しているバーへ寄り道した。

バー
ヘルシンキ駅のホームに隣接するバー。ドイツビールを中心にフィンランドの珍しい地ビールも揃う。平日は0時、金土は2時まで営業している。あまり混雑もしていないので、乗る予定の電車を1本見送って、次の電車を待つ間に1人で静かに考え事をするのにはもってこいのバーだった(画像:©️週末北欧部 chika/世界文化社)
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