「灘→理Ⅲ」3兄弟の母の教育論への違和感 子の進学を親の手柄にするおかしな風潮
そもそも教育によって得られる成果は人によって違う。ある人は勉強して身に着けた知識と技能を利用して、画期的な発明を成し遂げ、大金持ちになるかもしれない。ある人は勉強して身に着けた教養とコミュニケーション能力で、たくさんの仲間をつくり社会を変革するかもしれない。またある人は数学の世界にのめりこみ、食べることも忘れて数式の美しさに没頭するかもしれない。
さらにその成果は、教育を受けたその瞬間に表れる場合もあるし、数十年後に表れることもある。それこそ、人の数だけ、勉強の意味がある。
つまり、その子供が勉強して何を得るのかを、予言することはできない。要するに、勉強の価値は、やってみなければわからない。教育とは本来、「こうすればこうなる!」と効果をうたえない類のものなのだ。
ビジネスの原理が教育を汚染する
しかし、今、ビジネスの原理が教育を汚染しているのではないかと私は考えている。
ビジネスとは、お互いにとって価値あるものを即時的に等価交換する仕組みである。前述のように、本来教育によってもたらされる価値は予言できず、教育にビジネスの原理はあてはめられない。にもかかわらず、無理やり教育にビジネスの原理を当てはめるとどうなるか。教育に、予言できる成果を求めるようになるの である。
たとえば高校の教育にはっきりとした成果が求められるようになると、大学進学実績や偏差値ばかりが注目されるようになる。
教育の価値が数値化されると、子供の価値も同じ数値で測られるようになる。「あの子は○○学校の子、あの子は△△学校の子。○○学校の子のほうが出来がいい」とか「あの子は偏差値60、この子は偏差値40。偏差値60の子のほうが出来がいい」とか。
それがそのまま親の「腕前」までを物語るようにもなる。「あの子の親は、息子を○○学校に入れたからすごい。この子の親は、娘を△△学校にしか入れられなかった」など。ビジネスの原理に、親の価値までもが汚染されてしまうのである。そのことに対する強い抵抗が、今回の炎上を引き起こしたのだろう。
親こそ「最短距離主義」を慎もう
子育てに正解がないということは、不正解もないということである。子供は親の思いどおりには育たないが、それなりのものには育つ。親がよほど余計なことをしなければ。私はそう思う。
たとえばA地点からB地点まで歩くとき、最短ルートを行きたいと思う人もいれば、きれいな景色を見ながら行きたいと思う人もいる。安全な道を行きたいと思う人もいるだろう。本当は時間を手に入れようと思っていたのに、道を間違えたからこそ感動を手に入れられたということもある。子育ても同じ。
今の子供たちは予測困難な時代を生き抜かなければならない。むしろどんな回り道も糧にできる力こそ、これからの世の中を生きて行くには必要ではないだろうか。その意味では、「最短距離」を歩ませることは決して子育ての「王道」ではない。また、子供にそういう力をつけさせたければ、まず親がそういう気持ちで生きて行かなければならない。
だから私は、講演会などでときどき冗談めかして言う。「子供をたくましく育てたいと思うなら、まずお父さん、お母さんが、『すぐにやせられるダイエット法』とか『絶対もうかる株式投資』、そして『頭が良い子を育てる法則』みたいな安直なノウハウ本を読まないこと。家の本棚から捨てちゃうこと」。冗談めかして言うけれど、実は結構本気である。
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