「居酒屋で隣に座る」くらいの距離が重要な訳 若者にも広がる「誰かとつながりたい」感覚

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でも、80年代生まれ以降になると、物心ついた時から共同体がありません。ですから、共同体に対する愛着や希望を強く持っています。

2010年代に流行りはじめたシェアハウスなども、まさしくその感覚でしょう。70年代生まれぐらいまでの人は、シェアハウスを嫌がる人が圧倒的に多いのですが、80年代生まれ以降になるとそうでもありません。

6人で3LDKのシェアハウスに暮らす人に「プライバシーのない生活は嫌にならないのか」と聞いてみたら、「僕たちは、外に出ると1人なんです。家にいる時ぐらいは仲間が欲しい」と言っていました。やはり、帰属意識が必要なんですよね。

昭和世代の帰属に対する反発が、共同体を希薄にさせてしまった。今、その逆張りが起きているのは間違いないでしょう。

コミュニティを持続させるのは難しい

僕は、松浦弥太郎さんと一緒に「SUSONO」という有料のコミュニティを4年ほどやっていました。毎月1度リアルで集まって、ゲストの話を聞いたり、山登りをしたりしましたが、コミュニティは、持続させることが本当に難しいものです。

地縁や血縁なら自然にコミュニティが生まれますが、そうでない場合は、放っておくと少しずつ人数が減っていくのです。そして、残った人間が常連化して、新参者が入りにくくなる。

ダンバー数的な少人数で持続はしていきますが、限界があります。変な人が入ってくることもありますからね。

マイケル・サンデル氏が、リベラリズムの限界を指摘し、共同体主義(コミュニタリアリズム)を提唱して一世を風靡しました。

一方で、コミュニタリアリズムは、コミュニティの中だけで固まって、排除の論理が生まれてしまいます。リベラリズムは、リベラルな普遍主義を共有する人は全て平等というものですが、コミュニタリアリズムに平等の思想はないのです。

排除と協調のバランスが常に難しく、排除に行きすぎがちという問題があるわけですね。すると、狩猟採集時代の部族の人数が一番盤石だということになるのかもしれません。

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