道長が「娘の出産」に取った"あまりにひどい反応" 天皇に嫁いだ娘たちの出産に道長が抱いた願い
「なぜじゃ」と問う道長に対し、匡衡は「犬の子どもが入ってきたということ、これは皇子が誕生されるという前触れにございます。犬の字は、大の字の下に点を付けたら、太という字になりましょう。しかし、上に付けたら、天という字になる。これを思うに、皇子が誕生することでしょう。その皇子は太子となり、必ず、天子(天皇)となると思われます」と答えたのです。
道長は匡衡の答えに感嘆します。そんなやり取りがあった後、彰子は妊娠しました。そして、敦良親王(後の後朱雀天皇)を出産したのです。
これは、平安時代後期に成立した説話集『江談抄』に描かれた逸話です。度重なる皇子誕生に、道長の心は躍ったに違いありません。
娘の出産に対する衝撃の一言
さて道長の長女・彰子には、妹がいました。妍子です。
妍子は、姉の彰子が産んだ敦成親王をたいそう可愛がっていたそうですが、妍子にも嫁入りの時期が迫っていました。
1010年、妍子は居貞親王(後の三条天皇)のもとに嫁ぎました。すでに藤原済時の娘(藤原娍子)が居貞親王の妃となっており、994年に娍子は敦明親王を産んでいました。
これに対抗するべく、妍子は居貞親王の世継ぎとなる男子を産むことを使命とされたのです。
1011年、一条天皇は崩御され、居貞親王が即位、三条天皇となります。妍子は中宮、藤原済時の娘・娍子は皇后となりました。
妍子は皇子を産むことを期待されていましたが、産まれたのは、女児(禎子内親王)でした。禎子内親王は、後に後朱雀天皇の皇后になります。
普通であれば、男子であろうと、女子であろうと、産まれたらよろこぶものでしょう。
しかし、道長は違いました。妍子が女児を産んだことに不快感を示したというのです(『小右記』)。
『小右記』の著者・藤原実資は「これは天の為すことであり、人間に関することはどうしようもない」と記していますが、それはそのとおり。不快感を示すほうがおかしいのです。
道長には3女・威子もいましたが、彼女もまた皇室に入ることになりました。
1018年、威子は後一条天皇のもとに入内しました。威子にとって後一条天皇は甥にあたります。この時威子は20歳、後一条天皇は11歳でした。
そのようなこともあり、威子が妊娠・出産するのは、かなり先になりました。威子が身ごもったのは、1026年、28歳の時です。
威子も姉たちと同じく皇子を産むことを期待されて、諸所で祈願が行われ、僧侶には読経が命じられました。
そして、威子は無事に出産しました。産まれたのは、女児でした。章子内親王です。章子内親王は、後に後冷泉天皇の中宮となります。
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