道長が「娘の出産」に取った"あまりにひどい反応" 天皇に嫁いだ娘たちの出産に道長が抱いた願い

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威子の女児出産に対する道長の感想は残されていません。しかし、平安時代中期の貴族である源経頼の日記『左経記』には、威子が「女」を産んだことを「すこぶる本意と相違す」と記されています。

もちろん、この続きには「平安をもって悦びとなす」とは記されてはいるのですが、皇子を産んでほしいという周囲の期待があったことが窺えます。

ちなみに、源経頼は、藤原道長の妻・源倫子の甥でした。威子の女児出産は、道長の最晩年に当たります(道長は1028年に死去)。このころには、娘が皇子を産むことへの執着はかなり薄れていた可能性もあります。

女児を産んだことに対する宮中の反応

威子は、1029年に再び出産します。このとき産まれたのも女児(馨子内親王)でした。すでに威子の父・道長は亡くなっていましたが、この女児出産の時に、宮中に仕える人々の反応はとても「冷淡」(『小右記』)だったといいます。

先ほど、女児誕生に不快感を示した道長の反応を「おかしい」と、現代人の感覚として述べましたが、大なり小なり、そうした空気というものが、宮中にあったのでしょう。

道長には、倫子が産んだ4女もいました。それが、嬉子です。嬉子は、1007年の生まれ。倫子、44歳のときの子どもでした。嬉子もまた姉たちと同じ運命を辿ります。1021年、敦良親王の妃となったのです。このとき嬉子、15歳、敦良親王は13歳でした。

1025年に、嬉子は親仁親王(後の後冷泉天皇)を出産しましたが、その数日後に亡くなってしまいます。突然の娘の死は、道長夫妻にとって、衝撃だったようで、涙を流し、茫然自失だったようです。女児誕生に不快感を示した一方で、娘の急死に我を忘れる道長なのでした。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社、2013)
・倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社、2013)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

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