日本は、何となくの場の共有ということを通じて、細かいことは言わず、みんなが良くなることを目指す社会です。「個人」ではなく、「みんな」がいる。だから、何かを決めようとすると「お墨付き」がないと困るわけです。
それぞれ個人の意思で関わっているなら、やりたい人がリーダーになるでしょうが、みんなが場を共有することで、自他の区別なくやっていくのですから、みんなの意見に「お墨付き」を与える誰かが必要になる。それが上下関係を作るのです。
また、上の人も言語化しませんから、みんな「背中を見て」育ちます。まずは雑巾がけ、掃き掃除から始まって、師は「これをしなさい」ということをはっきりと言いません。
もしすべてが言葉になっていれば、本を読むなどすればよく、上下関係も必要ない。でも、日本人は、背中を見て学べる偉い人がいなければいけないし、「どうしたらいいかな」とみんなが互いに顔を見あっている時に、おおかたの人たちが思っていることを「これでいきましょう」と言ってくれる立場の人がいなければならないわけです。
進化史上「リーダー」は存在しなかった
ダンバー氏も言っていますが、いわゆるリーダーというものは、人類の進化史の流れの中では存在しませんでした。かつては人数も少なく、みんな平等で、お互いに話し合いでなんでも決めることができたからです。
実際に、15人程度までなら、日々一緒にやりながら、何となく決まってゆき、明文化せずともうまくやっていけます。
ところが、組織が大きくなって、いろんな意見の人が出てくると、厳密な規則で運用しなければならなくなります。規則ができると、その執行役が必要になり、上下関係やヒエラルキーが生まれる。すると、そこに対して、不適応になる人も現れるわけです。
そこをどのように運営していくかは、文化によって異なるでしょう。この辺りは、まだ誰もきちんと論じていないところです。
本書で言及されているのも、西洋社会が基盤です。「ダンバー数」が、日本文化においてどう働いているのか、日本のタテ社会との関係がどうなっているのか。日本を知るには、もう少し分析が必要だと思います。
(構成:泉美木蘭)
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