松田さんは「身体を中心に建物ができている」と表現する。
この三鷹天命反転住宅を手がけた荒川修作さんは、愛知県名古屋市に生まれ、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学後、前衛芸術作家として芸術活動を始めた。1960年には吉村益信さん、篠原有司男さん、赤瀬川原平さんらと「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を結成、若きアーティストの一人として注目を集める。
さらなる飛躍を目指した荒川さんは、1961年にアメリカ・ニューヨークへ渡った。翌年には生涯のパートナーとなる詩人のマドリン・ギンズさんと出会い、共同制作を開始。60年代〜80年代にかけて、荒川さんは日本を代表する美術作家として美術館やギャラリーで作品を発表してきた。
そして芸術活動と並行して、荒川さんとギンズさんは「身体」で体験できる建築の世界に関心を寄せ始める。
1995年に岐阜県・養老町に「養老天命反転地」をつくり、長年の構想を実現した。
約1万8000平方メートルの広大な敷地には、人間の平衡感覚や遠近感を混乱させる仕掛けがさまざま施された。筆者も現地を歩き、視覚的な錯覚や不安定な感覚を味わった。ここまで身体の感覚に意識が向いたのはいつぶりだろうか。
養老天命反転地は完成後大きな話題となったが、荒川さんとギンズさんはあることに気づく。それは「養老天命反転地が非日常の体験ができる場である一方で、日常を退屈なものだと感じさせる場にもなってしまう」ということだった。養老天命反転地もほかの遊園地も同じで、そこでの体験が楽しければ楽しいほど、家に帰ってきたときに日常との差を感じてしまう。
荒川さんとギンズさんは、家に帰ってからも楽しめる「日常空間をつくろう」と決意。それが住宅づくりのスタートだった。
三鷹の地を選んだ理由
ちなみに「三鷹」を選んだ理由はあるのだろうか。
土地探しのときからスタッフとして関わっていた松田さんは、「荒川とギンズは『日常空間に日常生活の場としてつくろう』とよく言っていて、ほどよい生活感があり、生活の場として認知されているエリアで探しました」と振り返る。
そこで予算などの条件に合ったのが三鷹市のこの地だった。松田さんは「なぜ、避暑地や別荘地など風光明媚な場所につくらなかったのか」と聞かれることもあったというが、日常生活が感じられる地域だからこそ、三鷹を選んだのだ。
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