阪神甲子園駅、人知れず残る「路面電車」の痕跡 球場のそばを南北に走っていた「甲子園線」

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もっとも、「夏の甲子園」や「センバツ高校野球」の開催期間は毎年それぞれ2週間前後であり、それだけでは安定的な乗客獲得とはならない。

そこで阪神は、1935年にプロ野球球団の阪神タイガース(当時は大阪野球倶楽部)を創設。甲子園球場はその本拠地ともなった。以来、阪神タイガースの成績によって波はあるものの、球場への来場者輸送は阪神の経営を大きく支えている。

ところで、現在の甲子園球場の観客席数は4万7359席と日本最大規模を誇る一方、開設当初は座席数が5万人、さらに立ち見などを含めた総収容人数は8万人と資料に記されている。現在よりもはるかに規模が大きく、しかも「夏の甲子園」では初年度から満員を記録するという状況だった。

ここで問題となるのが、鉄道の輸送力だ。今でこそ阪神の列車は6両編成(近鉄に乗り入れる快速急行の一部は8両編成)だが、当時は2両連結運転が開始されたばかりで、車両自体も小ぶり。1列車あたりの輸送力がはるかに小さいため、阪神は臨時列車を大増発することで乗り切ろうとした。ただし、そのためには車両を甲子園駅近くに待機させておく必要がある。

今も残る分岐線の跡

実は、その留置線の痕跡が今も残っている。甲子園駅の北側に回ると、高架構造物の一部が不自然な形状となっているのが確認できる。

かつては本線と分岐した線路がここから北に延びる形で地上へ下り、さらに折り返して南側へと続いていた。野球などのイベント開催時はここに車両が待機し、試合の進行や観客の状況に応じて本線に進出。臨時列車が何本も大阪方面に運行されたのである。

甲子園駅北側 分岐線の跡
甲子園駅北側には地上へと下りる分岐線の遺構が残る(撮影:伊原薫)
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