新幹線開業以外も激変「福井の鉄道」60年の記憶 SLから私鉄新型車まで、撮り続ける故郷の列車
鉄道の写真を本格的に撮影するようになったのは東海道新幹線の試運転を撮ったことがきっかけだったが、鉄道への関心自体は幼少期からあった。
最初の記憶は、福井鉄道の南越線(1981年全線廃止)、そして福武線だ。全国の鉄道が急速に近代化を遂げた昭和30年代は、北陸、そして福井の鉄道も大きく変貌しつつあった。1957年には北陸本線の木ノ本―敦賀間が新線に切り替わり、田村―敦賀間は日本で2番目の交流電化線区となった。1962年には北陸トンネルが開通した。
そんな中で今も強烈な印象があるのは、1960年に福武線に登場した200形電車だ。
憧れだった福井鉄道「200形」
200形はそれまでの福鉄の電車とはまったく異なるモダンな車体で、車内は北陸本線の急行電車のようにクロスシートが並んでいた。鉄道線では高速運転でき、路面区間にも乗り入れられる「名車」で、近代化する国鉄の北陸本線に負けないという福鉄の「起死回生」ともいうべき意気込みを感じた。
そのころ福武線に乗るのは三十八社駅が最寄りの親戚の家を訪れるときが主だったが、この駅は普通電車しか止まらない。急行の200形に乗るために、わざわざ途中まで急行で行って普通に乗り換えたものだった。200形は2023年春に美しく修復されて「北府駅鉄道ミュージアム」に保存されており、この塗装再現は筆者の撮影したフィルムの色彩を元にしている。
中学校卒業後に名古屋に移り、さらにその後アニメーション制作会社へ就職して東京に住むようになってからも、お盆と年末年始の帰省の際には福井の鉄道を記録していた。
昭和40年代前半、鉄道撮影の主なターゲットは姿を消しつつあった蒸気機関車(SL)だった。全国各地の路線でSLを追ったが、福井でとくに撮影したのは越美北線だ。同線では8620形が活躍しており、その均整の取れたスタイルに魅せられて帰省のたびに記録を続けた。
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