今なお残る「富士重工製の鉄道車両」一族の系譜 2003年生産終了、独創的技術生かした気動車も

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中島飛行機は1917年、中島知久平が現在の群馬県太田市に設立した飛行機研究所をルーツとする。まもなく陸軍からの受注を受けるようになり、続いてエンジンの生産もスタート。太平洋戦争が始まると海軍機も担当するようになった。当然ながら全国各地に工場が開設されることになった。

しかし敗戦により航空機は生産停止が命じられ、中島飛行機は富士産業と名を改め、平和産業への転換を図った。「ラビット」と名付けられたスクーターや船外機など、さまざまな製品を生み出す中、栃木県の宇都宮工場では、国鉄の戦災車両の復旧事業を1946年から始めた。

宇都宮工場は現在も、航空宇宙カンパニー宇都宮製作所として稼働している。本工場、南工場、南第二工場があり、戦災車両の復旧は本工場のある場所で行われた。現在のJR東日本日光線の宇都宮―鶴田間の線路沿いにあったことが契機かもしれない。

ちなみに南工場と南第二工場は、航空機の製造や整備が本業で、元は中島飛行機の所有だった陸上自衛隊の駐屯地に隣接しており、東北本線雀宮―宇都宮間のやや西に位置している。

宇都宮車両として独立

同じ頃、群馬県大泉町にあった小泉工場の技術者たちは、航空機の機体技術を生かしたバス車体の開発に取り掛かっていた。こちらは同じ群馬県内の伊勢崎工場で、国産初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」として生産を始めた。

その後、富士産業はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から、4大財閥に準ずる組織であるとして解体命令を受け、1950年に12の会社に分割された。宇都宮工場は宇都宮車両として独立した。

東武日光軌道線100形電車
東武日光駅前に展示されている「東武日光軌道線100形電車」は宇都宮車両で製造された(編集部撮影)
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