東武の独立路線「カメが走った」熊谷線の軌跡 軍需目的で戦時中に開業、廃線後も残る面影
第2期工事区間は妻沼から利根川を渡り、貨物専用線の東武仙石河岸線(1976年廃止)を経由して、東武小泉線に接続する計画だったが、工事中に終戦を迎える。終戦により軍需輸送という建設目的を失ったが、治水上の観点から利根川橋梁の橋脚(ピア)が完成するまで工事を続行する方針となり、1947年7月に橋脚が完成した時点で工事は中止された。
戦後の高度経済成長期には、群馬県側への熊谷線貫通の機運が高まり、1961年10月に「東武鉄道妻沼・大泉線貫通促進期成同盟会」が発足。東武鉄道、国鉄および関係市町の間で熊谷線延伸に向けた協議が行われた時期もあった。また、逆に熊谷線を南へ延伸し、東上線の東松山駅につなぐ計画が持ち上がったこともあった。
しかし、マイカーの普及などで熊谷線の利用者は減少し続け、「昭和50年以降は年間赤字が2億円を超え、(昭和)54年度決算では収入は4100万円、赤字は2億4千万円」(朝日新聞1980年11月21日)と、営業係数が500を超える不採算路線となった。廃止反対の運動もあったものの、1983年5月31日を最後に熊谷線は廃止された。

秩父鉄道の「間借り」だった駅
続いて、熊谷線の廃線跡を熊谷駅から妻沼駅跡まで歩いてみよう。熊谷線には、熊谷、上熊谷、大幡、妻沼という4つの駅が存在したが、熊谷駅、上熊谷駅の両駅は、秩父鉄道のホームを間借りしていた。軍需目的により、急ピッチで建設しなければならず、熊谷―上熊谷間は、「仮線」ということで秩父鉄道の複線化用地を借用して営業開始し、戦後も、独自の線路敷設の投資ができずに、そのままになっていたのだ。
熊谷駅では、秩父鉄道の羽生方面行き列車と同じホームを使って発着。線路をホームの中程で区切り、お互いに顔を合わせるように停車していた。
次の上熊谷駅は、上越新幹線の高架と高崎線の線路に挟まれ、さらにホーム上を国道407号が通過する、なんとも肩身の狭そうな小駅だ。駅舎から構内踏切を渡った先に島式ホームがあり、当時はこのホームを秩父鉄道と熊谷線が共用していた。
現在、ホームの旧・熊谷線側(北側)はフェンスでふさがれて使用されておらず、レールも撤去されている。実は近年まで、上熊谷駅構内を含め、熊谷線のレールは比較的長い距離が残っていたが、2019年に行われた高崎線の架線柱更新工事の際に、わずかな区間を残して撤去されてしまった。

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