東武の独立路線「カメが走った」熊谷線の軌跡 軍需目的で戦時中に開業、廃線後も残る面影

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さて、上熊谷駅を出た熊谷線は、秩父鉄道の線路としばらく併走した後、大きく北へカーブして妻沼を目指していた。この辺りから先、廃線跡は「かめの道」という遊歩道になっている。熊谷線廃止後、東武鉄道から熊谷市および妻沼町(当時)に線路敷きの土地が無償貸与され、道路やこうした遊歩道として整備が進められた。ちなみに、「かめの道」という名称は、「カメ号」という熊谷線の車両の愛称に由来する。

熊谷線では、1954年2月にディーゼルカーが導入されるまでの間、東武鉄道が鉄道院から譲り受けたイギリス製の蒸気機関車が客車を牽引していたが、10.1kmの路線を走るのに24分もかかったことから、地元の人たちに「のろま線のカメ号」と呼ばれていた。ところが、「キハ2000形」ディーゼルカーが導入されると一気に17分に短縮され、見た目もカメに似ていたことから、今度は「特急カメ号」と呼ばれるようになったという。

東武熊谷線 蒸機とキハ2000
27号蒸気機関車とディーゼルカー。新旧「カメ号」のそろい踏み(写真提供:熊谷市)

ディーゼルカーが走った「かめの道」

「かめの道」はとてもきれいに整備されていて歩きやすい。しばらく歩を進めると、熊谷線が高崎線の線路をオーバークロスしていた地点に到着する。当時の写真を見ると、熊谷線はかなりの高さのある築堤上を走り、高崎線の頭上を越えていた。

東武熊谷線 築堤 高崎線
築堤上を走り、高崎線をオーバークロス。勾配はきつく、蒸気機関車時代は馬力が足りず、ノロノロになったという(写真提供:熊谷市)

この築堤は延長1.5km、高さ最高4.2m、幅平均13mにも及んだといい、熊谷市街を文字通り「分断」していたため、熊谷線廃止後に撤去された。その土砂は1988年に開催された「さいたま博覧会」に備えての「熊谷バイパス」拡幅工事に再利用されたという。

高崎線の線路と国道17号線を越えた先も、「かめの道」はおよそ800m続き、終点となる。その先、廃線跡は舗装道路へと変わり、沿道は住宅地になっている。今の時代に熊谷線が残っていたならば、通勤・通学需要がかなりあったのではないかと、少し残念に思われる。

左手に大幡中学校が見える辺りまで来ると周囲に田畑が増え始め、やがて前方に熊谷バイパスの高架が見えてくる。この付近に途中駅の大幡駅があった。昔の大幡駅の写真を見ると、ホームの先に熊谷バイパスの高架が写っている。熊谷バイパスは、1982年に全線が開通していることから、熊谷線廃止直前の1982~1983年頃に撮影されたのだろう。

東武熊谷線 大幡中学校
1982~1983年頃の大幡駅ホーム。軍需路線として建設されたため、ほとんどが直線区間(写真出典:PAYLESSIMAGES)
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