『【推しの子】』が大ヒットしている。コミック累計1800万部を売り上げ、今年7月3日からはアニメ第2期の放送開始がスタートするなど快進撃が続いている。
同作は、冒頭に「もし芸能人の子供に生まれていたらと考えた事はある?」という問いかけがある通り、「ガチャ」が大いに意識されたエンタメ作品である。と同時に、主人公の青年が死後に前世の記憶を保ったまま、自分が推していたアイドルの子どもに生まれ変わる「転生もの」でもある。
一大ブームが続く「転生もの」、背景は?
近年、「転生もの」はマンガを中心に一大ブームになっている。ここ5年間を見ても、書名・副題に「転生」を含むマンガをはじめとする出版点数は、2019年に318点だったが、2021年は573点、2022年は735点と右肩上がりに増えており、2023年は819件と2倍以上になっている(出版書誌データベース)。サエない主人公が異世界に生まれ変わって、超能力を獲得し、活躍するパターンがよく知られている。
この「転生もの」の空前の興隆は、おそらく日本社会の閉塞感と無縁ではない。このジャンルを進んで消費する私たちの心理とその背景にある社会変化が密接につながっている様子がうかがえるからだ。
社会経済的な停滞、コミュニティの衰退が進む中で、ポジティブな意味で「人生を変える出来事」は起きづらくなっている。賃金は上がらず、生活に対する不安が高まっており、忍び寄る孤独や病気への懸念を抱え、将来の見通しは明るくない。そのモヤモヤを一時的に解消する「別の人生」「別の世界」を予感させるカルチャーへの訴求力が高まっているといえる。
筆者は、「転生もの」を貴種流離譚の変種と考えている。貴種流離とは、民俗学者の折口信夫(しのぶ)が命名した物語の類型の一種で、幼い神や身分の高い若者が、放浪しながら数々の試練を克服し、最終的には神や尊い存在になることをいう。記紀神話の大国主命や日本武尊の説話にまでさかのぼることができる。
「転生もの」が貴種流離譚とやや異なる点は、転生によって「ただの人」が瞬間的に貴種に格上げされるところだ。日本における前世の記憶を持つ人物の転生譚は、国学者の平田篤胤(あつたね)が江戸時代後期に「自分は程久保村の藤蔵(とうぞう)という子どもで、6歳の時に疱瘡(ほうそう、天然痘のこと)で亡くなった」と語ってセンセーションを巻き起こした子どもへの聞き取りをまとめた『勝五郎再生記聞』が有名で、以後それが生まれ変わりのリアリティに独自の奥行きを与えるようになった。
しかも、平田篤胤はほぼ同時期に、幼い頃に天狗に連れ去られ、神仙界(仙人の住む世界)を訪れ、呪術を習得した寅吉という子どもからの聞き書きをまとめた『仙境異聞』という書物を出している。つまり、「転生もの」は、『勝五郎再生記聞』(生まれ変わりの話)と『仙境異聞』(異界探訪の話)のハイブリッドであるといえる。前世の記憶を持って生まれ変わった先が異界になるという寸法なのだ。
とりわけ「異世界転生」の場合、どちらかといえば、生まれ変わりというよりも「世界A」から「世界B」への移行の側面が強く、移行後は、前世の状態における不全感の回復がおおむね意図されている。主人公の無双化はその最たるものだ。このような特徴から、霊肉二元論の死生観をベースにした「貴種流離譚の焼き直し」という見方ができる。「不本意なガチャの想像的な救済」と言い換えられるかもしれない。
『推しの子』が満たす「覗き見願望」
もう一つ重要な視点は「覗き見願望」だ。「転生もの」は、以前の人格や記憶を維持しているという点を踏まえると、自己の意識を保ったまま他人の人生を体験=覗き見する感覚に根ざしているといえる。『【推しの子】』では、芸能界の裏側をアイドルの隠し子として転生した赤ん坊の側から目撃する「異世界ツーリズム」の様相を呈している。
そもそも、自分の意識を持ちながら他者の中に入り込むというアイデアは、ファンタジー映画『マルコヴィッチの穴』(監督:スパイク・ジョーンズ、1999)が先駆けである。本作は、売れない人形遣いの主人公が職を得て、オフィスで文書整理の仕事をすることになったが、オフィスで発見した壁の穴に入ってみたら、15分だけ実在する俳優ジョン・ マルコヴィッチの頭の中に入れるようになる、という異色中の異色設定の怪作であった。
ジャンルが「転生もの」ではないこともあり、物語はマルコヴィッチの奪い合いへと展開していくのだが、もともと「覗き見」的な欲望に後押しされている点が非常に重要である。
『【推しの子】』はアイドルの赤ん坊の内部に入り込む形になっているが、有名人の内部からはどんな光景が見えるのかというスパイカメラ的な視線の共通性で際立っている(『マルコヴィッチの穴』では、主人公がマルコヴィッチと意中の女性の間にできた赤ん坊に閉じ込められるオチがある。これもスパイカメラ的である)。
これは、ある種の自己そのものを世の中から消し去ることであり、「今の自分」を透明人間に変える行為に近い。「人間の関係はふつう、見る主体であり同時に見られる客体なのだが、自分たちは見られずに見るだけの絶対主体なのだと。非存在の、いわば純粋視線」――半生を「のぞき」に捧げた男「為五郎」のドキュメント『盗視者 為五郎 のぞき人生』(桑迫昭夫/朝倉喬司、幻冬舎アウトロー文庫)にある言葉だ。
為五郎は、ある作家が「覗きは性行為」と思っていることについて真っ向から反論し、「性行為じゃないんだよ。覗きは自殺なんだから。自分の命を除くことなんだから」と「自分除き」であることを強調する(同上)。これを「転生もの」の構造に落とし込むと、スパイカメラのような存在として、「別の人生」「別の世界」に潜り込みつつも、移行先の他人の身体を盾に「見られずに見る」という享楽になるだろう。
推し活の本質は「推しの人生を生きる」こと
このような欲望は、リアリティ番組を支えている野次馬的な欲望にも通じるが、「転生もの」は当事者の内部に入り込みながら自己を透明化する。
筆者は、以前「推し活」ブームについて論評したことがある(「推し活ブーム」を鼻で笑う人に伝えたい社会変化)。「推し活」の本質は、「自分の人生」ではなく「推しの人生」を生きることにある。そこでは、自己が推しの一部となって消滅することこそが癒やしとなる。その究極の形態を作中で描いてみせたのが『【推しの子】』なのだろう。
実際に「別の人生」「別の世界」を切り拓くためには、多くの障壁や困難を乗り越えなければならない。けれども、「転生もの」のような物語であるならば、リスクを感じることなく、「別の人生」「別の世界」を無責任に漂うことができる。それだけ私たちは少しでも現状に対する不満や疲労を緩和し、自己を透明化するツールを必要としているのかもしれない。
それは、まるでインスタントなマルチバース(multiverse=「多元宇宙」のこと。私たちのいる宇宙以外に観測することのできない別の宇宙が存在しているという概念を示す科学用語)体験のようである。おそらく「転生もの」は、ありとあらゆる社会経済的な影響を責任転嫁され、抱えきれないほどの重みで疲弊した自己を、ほどよく中和するセラピーの一種になっている。
さまざまな点において選択の可能性が狭まり、人生がますます不自由に感じられる中で、決して来世に望みを託すではなく、現世の転生譚を消費することで「私」の負荷を軽減し、日常を肯定できるよう心理的な回復を図っているのである。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら