富山港線はなぜ「日本初のLRT」になりえたのか 2006年に路面電車化、鉄道路線として開業100年

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同氏は市長になる前、富山県議会議員を務めていた。ここで当時は加越能鉄道が運営していた、高岡市および射水市の高岡軌道線・新湊線を、第三セクターの万葉線として存続させるという道筋づくりに関わった。

万葉線
森前市長が県議会議員時代に関わった万葉線(筆者撮影)

一方の富山市は2005年、周辺の6町村と合併し、市域が大きく拡がることになっていた。人口が減少し税収が減っていく中、これ以上市街地の拡散化が進むと、水道や除雪などの市民サービスが立ち行かなくなるという懸念があった。

そこで森市長は、既存の地域拠点に人を集め、質の高い公共交通で拠点をつなぐ、「公共交通を軸としたコンパクトなまちづくり」を提唱した。その象徴として富山港線のLRT化を位置付けたのだった。森市長は就任翌年、富山港線の路面電車化を発表した。

日本初「ライトレール」の路線名

具体的には、富山駅の約1km東方にある奥田中学校前踏切を境に、北側は既存の線路を活用し、富山駅からここまで新設の併用軌道を敷いた。ゆえに踏切付近より北は鉄道、南は軌道扱いとなる。この時点ですでに、富山駅の南側を走る富山地方鉄道富山軌道線(市内電車)と接続は織り込み済みだった。

事業費は約58億円と算出されたが、連続立体交差化事業からの負担金として33億円、路面電車走行空間改築事業をはじめとする補助金約15億円があり、富山市の負担は10億円に抑えられた。それでも富山市では公費投入について、数多くの市民対話を行った。市長も120回の説明会に出たという。

以前から路面電車が走っていて見慣れていたこともあるが、多くの市民がプロジェクトに賛同した裏には、こうした地道な努力もあった。

運行会社としては、第三セクターの富山ライトレールが設立された。第三セクターの路面電車は万葉線に続き2番目、「ライトレール」という言葉を路線名に使ったのは日本初だった。

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