孤高の天才棋士「豊島九段」を育てた"2人の師匠" 幼き頃の知られざる師匠とのエピソードを公開
退会後に勧められて関西本部の職員になった。アマ大会には出場せずに、第二の人生として指導者の道を選ぶ。当時は「準棋士」と呼ばれた。月曜日から金曜日まで連盟の総務で働き、週に数日、夜は企業の将棋部に稽古に出向く。日曜、祝日は将棋大会に運営の手伝いとして駆けつけた。現在の関西将棋会館建設の際には、当時の大山康晴会長と一緒に寄付集めに回った。
将棋連盟を55歳の定年で退職した後、嘱託として道場の担当になった。それまでも、準棋士として子ども教室を開き、月謝をもらって指導もしてきた。生活のためでもあったが、才能のある子を見つけたい気持ちが強くあった。自分がかなえられなかったプロへの夢――。
棋士になりたいという子は何人もいた。だが、自分から受験を勧めたのはそれまでに矢倉規広(現七段)だけだった。土井は言う。「入会して、途中で辞めていった子が何人もいました。ご存じだと思いますが、三段の壁は大変ですからね……。そやから、あんまり勧めることはしないんです」
豊島に出会ったのは、土井が60歳を前にしたときだった。駒落ちから丁寧に教えると1年で初段になった。
「あんな小さな子の昇級が早ければ目立ちます。私が道場で豊島君にだけ教えているのは、他のお客さんの手前、よくないと思いましてね。それで月に1回、私が大人を集めてやっている同好会のほうに来てもらうことにしたんです」
豊島は史上最年少で奨励会に合格
幼い豊島に負けず嫌いな一面を感じたことがあった。母と大盤解説会に来ていたときのことだ。次の一手問題が出されたが、難しい局面だったので正解者がいなかった。景品が抽選で配られることになり、偶然、豊島の名前が呼ばれた。
母親が「当たったよ!」と伝えたが、「僕は正解じゃないから、要らない」と言う。はずれたのが悔しくて、何度名前を呼ばれても行こうとしない。仕方がないので母親が代わりに受け取った。「普通、5、6歳の子どもなら喜んで行くものなのですけどねえ」と土井は言う。
土井の指導は5歳のときから、小学3年で奨励会に入るまで続いた。豊島は小学1年のときに両親に「棋士になりたい」と告げたという。3年生のときには道場で六段、土井に平手で勝つようになっていた。「奨励会に入るなら、少しでも早いほうがいい」。土井は両親にそう言った。9歳の夏、豊島は史上最年少で奨励会に合格した。
自分の役割は終わったと土井は思った。
「桐山先生のお人柄はよく知っていました。奨励会のときから指していますし、先生が連盟理事を務めたときに私はその下で働いていました。豊島君をお願いするのに何も心配はなかったです」
奨励会に合格しても、豊島はしばらくは同好会に通うつもりだった。しかし土井は「もうここは卒業だよ」と伝えた。これからは、この子と指す機会はほとんどないだろう。昇級したときだけでも、声を聞きたかった。
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