「コスパ主義者」に感じてしまう薄っぺらさの正体 Z世代が気づいていない「コスパ志向」の弱点
少ない労力で大きな成果を得る、がコスパの本義だとしたら、そりゃ万人にとって良いことのはずであって、なんら非難されるようなことではない。だがしかし、コスパという概念を扱うとき、どうしても侮りが生まれるというか、薄っぺらさを感じてしまう方も少なくないだろう。
明らかに魅力的なのに、軽薄さも備えている。流行りに対してマジメに異議を唱えるのも難しいこの世の中で、この矛盾の謎について考えたい。
行きたくないです、コスパが悪いので
「コスパ」が現実で、かつイマドキな感じで用いられそうな例を考えてみよう。職場で、上司が若手社員にアドバイスする。
「今度来られる方は、この業界のベテランで、とても経験ある方だ。夜に食事をご一緒できるみたいだし、気さくな方だから、ぜひお話を聞いてきたらいいよ」
ところが若手社員は、ぶぜんとして答えるのである。
「その経験とかの話って、2~3時間や数千円使って得るようなものなんですかね? コスパ悪くないですか?」
そもそもそんな物言いは失礼でしょ、というまったく正当な意見は無視しておくと、上司はキレそうになる心を抑え、でも同時に納得感をもつかもしれない。まあ、考えてみると数千円は安くはないし、それだけの価値があるかと言われると……。数千円の本を買って読めって言われたら躊躇するしなあ。今まで自分は何千円も払って何度も飲み会に付き合ってきたけど、あれってすごくコスパ悪いのかもしれない。
そういう場合はだいたい多少は奢ってもらえるし、会社から補助が出ることもあるよ、とか細かい追加情報はあれど、たしかに「2時間3000円のコスパ」といざ突き付けられると、ウっとなってしまう。それはまったく安い買い物ではない。じゃあ、行く意味なんてなくなってしまう。若者の飲み会離れとか言うけど、これが、現代を支配するリアルなコスパの論理なのだ (ちなみに、若者は別に飲み会離れしていない。拙著参照)。
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