「エジプト」現地在住・世界史講師が語る深い魅力 一度は訪れたい「世界史的絶景の宝庫」
ヒクソスを追放して成立した新王国の時代に古代エジプトは絶頂期を迎え、トトメス3世の時にシリアからスーダンまでの最大版図になりました。しかし、アモン=ラーの神官団が強大化して政治に介入するのを排除するために世界初の宗教改革が行われます。アメンホテプ4世です。アトン神を唯一神とし、自らの名前を「イクナートン(アクエンアテン)」と改名、都もテーベからテル=エル=アマルナへ遷都し、権力を国王に集中させます。
しかし、急激な変革や自然災害などが相まって失敗、彼の死で再びアモン=ラーを中心とする多神教が復活しました。彼の妃がネフェルティティで、後継者になったのがツタンカーメン王です。前13世紀に登場したラムセス2世は強大な王権を復活させ、領土を拡大し、のちに「征服王」とも呼ばれました。シリア遠征でヒッタイト人と戦い、世界史上初の講和条約を結んでいます。これ以降は、衰退してしまいました。
新王国滅亡後は、オリエント世界を統一したアッシリア、アケメネス朝ペルシアの支配下に入ります。アレクサンドロス大王の没後、プトレマイオス朝が成立し、この王朝の最後の王が、あの有名なクレオパトラ7世です。彼女はローマの将軍カエサルと結婚しましたが、彼の死後はローマと対立。ローマの将軍アントニウスを味方につけましたが、前31年のアクティウムの海戦でローマ軍に敗れて自殺し、プトレマイオス朝は滅亡しました。
前30年にはローマに支配され、ローマの東西分裂後には東ローマ帝国の領域に入りましたが、7世紀初めに成立したイスラーム教が教団国家を設立し、領土拡大を図り、シリア・エジプトはイスラーム勢力の支配下に入りました。
オスマン帝国の支配下へ
10世紀半ばに北アフリカから侵攻してきたファーティマ朝がカイロを建設し、そこに世界最古の大学とされるアズハル学院が設立されました。その後、イスラーム文化の中心としてカイロは大繁栄します。
12世紀に建国されたアイユーブ朝の建国者サラディンは、十字軍が建国したイェルサレム王国を破り、聖地イェルサレムを奪回しました。これに対して行われた第3回十字軍との戦いでも勝利をおさめたものの、キリスト教の捕虜の返還やキリスト教徒の巡礼を認めるなど、寛容な姿勢を貫いた王として有名です。13世紀にトルコ人奴隷(マムルーク)によって建国されたマムルーク朝では、紅海からアラビア海そしてインド洋にかけて、カーリミー商人によるダウ船交易が栄え、エジプトに富をもたらすも、大航海時代に入りポルトガルがアジアに進出すると、アラビア海の制海権は奪われ、経済的に衰退していきました。
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