衝撃の最後になる?「不適切にも」脚本の巧みさ 何も起きなかった9話、市郎と純子の運命は?
第6話は、令和の若者と昭和のおじさんがクイズ対決するEBSテレビのバラエティ番組収録現場が舞台になる。市郎に連れられて令和に来た純子が、おじさんをバカにする令和のバラエティを「おもしろくない。ただの“さらしもの”」と一刀両断。これまで昭和の視点から令和の息苦しさに物を申してきた、市郎に通じるものがあり、気持ちのいいキレっぷりを見せた。
第7話では、EBSテレビのドラマ制作が舞台となり、エゴサーチしてSNSの目が気になってしまい、筆が進まなくなる脚本家、同じくSNSの反応に右往左往するプロデューサーの滑稽な姿を映し出した。また、SNSでつぶやきながらドラマを見る考察視聴や、伏線と回収にやたらこだわる視聴スタイルに対して「ドラマの見方は人それぞれで自由なもの」とし、本作の脚本家である宮藤官九郎から、視聴者に対するメッセージ性も込められていた。
第8話は、一度の不倫から禊ぎを経ても、復帰が許されない男性アナウンサーの悲哀を描く、テレビ業界の不寛容さがテーマになった。SNSの投稿やコタツ記事を“世間”として捉え、スポンサーに忖度するテレビ社会の裏側を自虐的に描くとともに、不倫の当事者ではない他人たちが、正義を振りかざして怒る滑稽さも映し出した。
昭和世代以外にも幅広く共感させた仕組み
前半では一般社会における働き方や企業のコンプライアンスを取り上げてきたのに対して、後半は主にテレビ局を舞台にその内側と外側の両方のおかしな部分を、昭和から来た市郎や純子だけでなく、令和人の登場人物(主に回ごとのゲスト出演者)らが鋭く指摘していた。
昭和世代の視聴者からの共感が多かった前半と比べて、後半からは令和世代も含めた幅広い視聴者層が共感を得られる仕組みになっていたと思う。
なかには、市郎が令和に対するメッセージを乗せて歌うミュージカルに、周囲の人物が誰も乗ってこなくて失速した回もあった。そこからは、昭和の常識がすべて令和に共感されるわけではないことも示されている。
令和と昭和の対比の一方、市郎や周囲の人たちが、純子には未来がないことを本人に悟られないように振る舞う様子が、コミカルな要素も織り交ぜながら描かれた。不幸な未来を変えようとしない異色のタイムリープ・ドラマとなり、自身と娘の生の期限を受け入れて生きる、切ない人間ドラマの一面もはらんでいる。
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