横浜線直通計画もあった「みなとみらい線」秘話 2024年で開業20年、距離は短いが工事は難航

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みなとみらい線は、1980年代から造成が進められた「みなとみらい21」地区へのアクセス確保を目的に建設が計画された。同地区は、かつて三菱重工横浜造船所や国鉄の貨物ヤード(高島駅)などが広がる、一般人は立ち入れないエリアだった。そのため、関内、伊勢佐木町などの旧来の市街地と横浜駅を中心とする新しい繁華街は、長い間、分断された状態にあった。

1994年 みなとみらい21
1994年のみなとみらい21地区(撮影:高橋孫一郎)

そこで、1965年に提案された横浜市の活性化を目的とする大規模な都市計画「横浜市六大事業」の1つとして、高速鉄道(市営地下鉄)の建設、港北ニュータウンの造成などと並んで、横浜都心部の強化(現・みなとみらい21地区の開発・造成)が挙げられた(「みなとみらい21」という名称は、後に公募により決定)。

その後、オイルショックなどの影響から開発計画はしばらく進捗しなかったが、1983年3月に三菱重工横浜造船所の本牧・金沢地区への移転が完了した後、同年11月にようやく着工に至った。

横浜線直通の計画がなぜ東横線に?

みなとみらい線の建設は、同じく六大事業に含まれていた市営地下鉄の建設計画に端を発する。当初計画では、市営地下鉄3号線は本牧―関内駅―桜木町駅―横浜駅―新横浜駅―勝田(港北ニュータウン)を結ぶものとされた。だが、1976年9月に横浜―関内間が開業(同時点で1号線は上永谷―関内まで開業)した後、関内以遠の区間は、地下鉄工事にともなう国道の渋滞発生が懸念されることを理由に、港湾業界から運輸省に工事着手の延期を求める陳情が提出されるなどし、工事が保留されていた。

その間にみなとみらい21地区の開発がいよいよ具体化し、輸送需要が見込まれるようになる中、1985年7月の運輸政策審議会答申第7号に、東神奈川駅からみなとみらい21地区を経由して元町付近(山下町)に至る「みなとみらい21線」が、早期に新設すべき区間として盛り込まれたのである。

同時に元町から本牧経由、根岸線の根岸駅までが、今後、建設を検討すべき区間とされ、市営地下鉄3号線の関内―山下町間はみなとみらい線と重複することになったため、調整の結果、後に建設を断念した。

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