横浜線直通計画もあった「みなとみらい線」秘話 2024年で開業20年、距離は短いが工事は難航

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さて、ここからは、みなとみらい線の建設工事がどのように進められたのかを見ていこう。その様子は横浜高速鉄道副社長などを務めた廣瀬良一氏の著書『ヨ・コ・ハ・マ「みなとみらい線」誕生物語』(絶版。以下、誕生物語)に記録されている。興味深いエピソードをいくつか拾って見ていこう。

まず、鉄道の「通し方」については、高架方式にするか、地下方式にするかについて、「熱い議論」(誕生物語)が戦わされたという。高架方式のほうが工費は抑えられるが、横浜駅を出てすぐに首都高横羽線があり、これをフライオーバーするには20m以上の高さの構造物が必要になる。また、横浜―桜木町間には、地元で揶揄的に「万里の長城」と呼ばれる根岸線・東横線の高架があり、地域を分断している。これに加えて新たに4.1kmにおよぶ高架鉄道ができることは、住民感情からして容認されにくいと思われた。

こうした理由から費用は割高になるものの、全線地下方式とすることが決定されたが、市街地の地下を通すがゆえに、既存の上・下水道、ガス、電話などと随所で競合し、切り回し、移設等の必要が生じた。

難航した地下線工事

一例として、横浜開港後に外国人居留地域として早くから都市施設の整備が進められた日本大通り駅付近では、明治時代のレンガ造の「卵形下水管」が、駅建設工事中に発掘された。「保存か撤去かで相当の期間工事が進められず」(誕生物語)、最終的にはその一部を切り取ってサンプル保存することになった。この遺構は現在、横浜都市発展記念館で屋外展示されている(同館は2024年夏頃までの予定で休館中だが、屋外展示は見学可)。

卵型下水管 横浜
日本大通り駅建設工事中に発掘されたという明治時代のレンガ造「卵形下水管」の一部(筆者撮影)

また、東横線とみなとみらい線共用の横浜駅(地下4層構造)の構築は、当時は中央部に1本しかなかった地下自由通路を南北に1本ずつ新設する横浜市の公共事業と一体的に進めなければならず、そもそもの協議が複雑化した。そのため、4.1kmの短い路線ではあるが、全体を2区間に分け、みなとみらい―元町・中華街間を第1工区として先行着手することになった(第1工区は1992年11月、第2工区は1995年2月着工)。

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