こうして民主主義と資本主義とが同義語になった。その結果、企業は使われるものから称えられるものに変わった。企業がわたしたちの特徴になると同時に、わたしたちは企業をもてはやすようになった。
しかし、企業の歴史の中で起こったこの変革は、危険な副作用も招いた。企業が成長し、巨大化する一方で、今や企業に公共の精神が求められることはまれだ。市場の倫理性よりも、市場の効率性が問われる。
ある企業が儲かっていれば、それは企業の効率性が高い証拠であり、効率性の高さこそ、追求するべき善である。こういう考え方が社会だけでなく、企業のリーダー自身のあいだにも浸透している。
これにより社会の大きな問題への関心が薄く、もっぱら利益を上げることに腐心するビジネスリーダーが増えた。金融資本主義も台頭し、ものの生産よりも金融工学に軸足を移した企業活動が目立つようになっている。さらに「迅速に動き、破壊せよ」というモットーに代表される、責任ある行動より急速な技術の進歩を重んじるシリコンバレー精神も広まった。
ときにビジネスリーダーが共通善の守り手としての役割を口にすることもあるが、わずかな例外を除いて、そのような発言に行動の裏づけがあることはますます減っている。
放棄されてしまった企業の本来の役割
わたしたちが今、目の当たりにしているのは、企業と大物経営者が途方もなく大きな――東インド会社の時代には想像すらできなかったであろうほどの――富と力を持つ時代だ。しかし社会の繁栄を築くための道具という、企業の本来の役割は放棄されてしまっている。
これは危険な状況だ。長い年月のあいだに企業は進化したが、同時に、制度を悪用して、他人の富を奪い取ろうとする悪徳経営者の手口も進化している。グローバル経済の将来に何が待ち受けているかは、企業の原点に立ち返れるかどうかで決まる。原点に立ち返れなければ、あらゆる犠牲を払って利益を最大化するという泥沼にはまって、二度と抜け出せなくなるだろう。
(翻訳:黒輪篤嗣)
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