雨風太陽がNPO出身企業で"日本初"インパクトIPO 産直EC"ポケマル"「都市と地方をかきまぜる」

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当時、高橋さんは当選2回目の岩手県議で、地元は岩手県内陸部の花巻市。地元からの支援物資を積み込み、津波で甚大な被害を受けた沿岸部へ。車上生活を送りながら、岩手県大槌町を中心に炊き出しなどのボランティア活動を続けた。

高橋博之さん
地元・花巻市で開いた上場報告会で創業からの思いを語る高橋博之さん(写真:筆者撮影)

議員活動を通じて農家の声を聞き、食を支える一次産業の重要性を感じていた高橋さん。家族を亡くし家や船を失っても「津波を恨んではいない」と海の仕事に戻ろうとする漁師たちの姿に衝撃を受け、被災地のために働こうと心に誓った。

「復興をけん引するリーダーになる」。そう直感し、誰にも相談せず岩手県知事選への出馬を決意。被災地を歩いて遊説した。結果は敗北。この時の政界引退というキャリアチェンジが、後の「雨風太陽」へとつながっていく。

被災地の光景から「関係人口」を事業に

その後も、いち民間人として支援活動を続けた。すると、そこには都会から被災地に通い、漁師や住民たちと一緒に炊き出しをし、がれき撤去に励むボランティアの姿があった。

震災がなければ出会わなかったはずの漁師と都市住民がともに汗を流す。漁師は彼らの応援に励まされ、都市から来た人たちは自分の役割を見つけ出し、生きがいを感じていた。

被災地が助けてもらっているとばかり思っていたら、都会から来た人たちが被災した農村漁村に救われている

このことに気づいた高橋さんは「都市と地方との交流を災害時だけでなく日常の中に落とし込めれば、日本の抱える課題は解消できる」。そう確信した。

後に高橋さんが提唱し、国の施策にも盛り込まれる「関係人口」の言葉は、このころの被災地での対話の中から生まれたもの。被災地は震災前から人口流出が進み、少子高齢化が大きな課題となっていた。

「元に戻すだけなら、ただの過疎地になる。あのころ盛んに言われた“創造的復興”の芽が出れば、それは日本社会全体の答えになる、そう思ったんです」

政治とは別の方法で社会課題に向き合う覚悟が決まった

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