父親は仕事が忙しかったこともあり、母親はもちろん、自分たち兄弟にもそんな愛情表現を見せたことがなかった。
「おれは(妻が)生きてるうちに、こんなことを一度もやったことがない」
問わず語りに父親がぽそっと漏らした。
そんな両親からは視線を外して拓也は稲熊に話した。
寡黙な父親の抱擁と懺悔と回想の時間
「自分たち兄弟は子供の頃、本当に出来が悪かったんですが、母に勉強ができないことで怒られたことは一度もありません。父に通信簿を見せると僕たちが怒られるからと、父には見せずにいてくれて、本当にいつもやさしい母でした」
すると父親は母親を抱きながら、「本当におれは一度も見せてもらえんかった」と言い、表情をゆるめてみせた。
その後、兄弟が席を外して、稲熊と2人になると、父親はこう切り出した。
「息子たちに言ったことはないが……、息子たちは本当に母親にやさしいけど、おれはこいつにそんなにやさしいばかりではいられんかった。だから、きっとおれのことを恨んでると思う……」
最後は小さな声で懺悔(ざんげ)するかのようだった。だから、その体に触れることをためらっていたのか、と稲熊は察した。
拓也が看取り士に依頼したいと言い出した際も、お前たちがやりたいようにすればいいとすぐに容認したのも、母親と息子たちの絆をよく知っていたからだったのだろう。
「終わりよければすべてよし。(ご主人に)抱きしめてもらって、息子さんやお孫さんたちに囲まれるなんて。こんな幸せな最期はないじゃないですか。奥様はもうすべてを許してくださっていますし、きっとご主人にも『ありがとう』っていわれています。毎日が仲良しの夫婦なんていませんよ」
稲熊の言葉に父親は顔をゆるめ、慣れない抱擁の緊張感もとけたらしく、母親に楽しかった思い出をぽつぽつと語り始めた。
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