紫式部が女部屋に侵入した男に取った大胆行動 和歌を送った紫式部、書かれたその内容とは?

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それは例えば、式部の歌を「私に変なことをしておきながら、本当に私が好きなのか嫌いなのか、はっきりしない態度をとって帰っていった翌朝」に送ったものとし、歌の意味を「あなたはいったい、本気でなさったの、それとも一時の気まぐれなの。明け方に出ていらっしゃるとき、薄暗い明け方の空に朝帰りのそのお顔を紛らわして、空とぼけていらしたわね」と解釈する人もいるようです。

この意味にとるならば、式部とその男とは以前から少しは交流があったととることもできますし、何より、この時2人は肉体関係にあったということになります。式部がこの歌を詠んだのは、20代前半と言われています。

忍んできた男性は何者だったのか

では、式部と姉がいる部屋に忍んできた男は何者なのでしょうか?式部の父・藤原為時の同僚や、はたまた後に式部の夫となる藤原宣孝ではないかとさまざまな説があります。もし、後の夫だったとしたら、それはそれでロマンチックではあります。

今回の歌の件を見ても、紫式部はかなり大胆で、情熱的な面があったことがわかります。人間の行動をおかしみをもって見る余裕もあったのでしょう。

その一方でこんなエピソードもあります。

式部は「祓へどの神の飾りのみてぐらに うたてもまがふ耳はさみかな」という歌を残しています。これには「弥生のついたち、川原に出でたるに、傍なる法師の紙を冠りにて博士だちをる憎みて」との詞書があります。

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京都・賀茂川(写真:tonbokun / PIXTA)

当時の人々には、三月上巳(一日)に川原に出て、禊ぎをし、罪穢を祓い流す習慣がありました。人形を作り、それに人間の穢れなどを移し、川や海などに流すことも行われました。都の人々は、そうしたことを賀茂川で行っていたため、式部が言う「川原」とは、賀茂川のことでしょう。

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