能登半島地震、支援者が語る「現場対応」の難しさ 孤立続き、アクセスも困難。依然深刻な地域も

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――避難所の様子はどうでしたか。

私たちが最初に訪れた中学校は300人規模の大規模避難所で、食料は一定程度届いていました。しかし、水道は復旧しておらず、電気は自家発電のみ。被災者の方々はお風呂にも入れない状態が続いていました。

衛生用品はまったく足りておらず、清拭スプレーやウェットティッシュ、携帯用トイレ、携帯カイロなどを届けたところ、たいへん喜ばれました。

珠洲市内のさらに北東にある中学校では、被災者が暖房も行き届かない体育館で毛布にくるまって過ごしていました。隣にある公民館は新しい建物でしたが、避難所になっていませんでした。最初に体育館を避難所にする決まりがあったのだろうと考えられます。

大谷哲範・緑水の森支援活動・一般社団法人JAST代表/1970年代後半よりキーボーディストとして活動。尾崎豊、稲垣潤一、織田哲郎などミュージシャンのレコーディング・ツアーサポートに参加。東日本大震災直後から、被災地で心のケア、音楽ワークショップなど支援活動に従事(写真提供:JAST)

この地区では自宅で生活する人たちが多く、いずれ公民館も開放されると思われます。ただ、外部支援者は1人いただけで、ほかは被災した住民自身が自力で切り盛りしていました。

この中学校の避難所は在宅被災者の皆さんともコミュニケーションを取っていました。

疲弊しているスタッフも見受けられ、被災した住民と力を合わせて対応していました。ここでは在宅被災者も含めて分け隔てなくニーズを聞き取り、限られた食料を分配していました。

高齢者だけでの自主運営の事例も

――ほかの場所ではどうでしたか。

この中学校の避難所まで通うことのできない人たちのコミュニティーがあるのではと考え、海沿いの道を南下し、地区の公民館的な役割を持つ施設にたどり着きました。

一般社団法人チーム王冠(宮城県石巻市)から届いた支援物資(撮影:川嶋茂雄氏)

ここは在宅の人たちが集まる場所になっていました。自宅の片付けをしつつ、暖を取りたい被災者15~16人が集まり、高齢者だけで自主運営していました。衛生用品がかなり不足している印象で、支援物資の衛生用品を届けてきました。

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