米中双方の行動論理の背景に潜む「思考のクセ」 「敗戦国の日本」はどのように振る舞うべきか
「癖」を考えるには、固有の文脈にフォーカスする視点も必要になる。
戦後は、「世界のアメリカ化」と「アメリカの世界化」が並行的に起こった時代である。このような現象は、何か単一の論理に帰着するものではなく、2つもしくはそれ以上の論理の間で揺らいできた。
「アメリカは建国から250年かけて、『政教分離以前の段階』に退行してしまったかも知れない」(p.80)
アメリカという変電所自体の変調を巧みにとらえていると思う。アメリカという国はこの1世紀の間、フローの処理装置としての能力はすでに限界に達しているというのが著者の見立てである。
アメリカの弱さと強さである「イノセンス」
私はここを読んだとき、もしかすると米中関係とは巷間考えられるのとはまるで違うのかもしれないと思った。
著者はアメリカの持つ宗教的性格とそれに伴う理念的性格をことさら取り上げている。自由と平等は目的が交錯しており、それに伴う渋滞が恒常的に発生しがちなポイントと見る。
「このある種の『イノセンス』がアメリカの弱さであり、強さでもあると僕は思います」(p.31)
ここでやはりというべきか、お得意の「葛藤論」を繰り出している。
「アメリカの統治システムは自由と平等という2つの原理の葛藤によって政情が不安定になると同時に、そこから活力を得てもいます。葛藤は人を成熟させる」(p.180)
葛藤は人を成熟させる──。なんと美しくも含蓄に富む一文だろう。
アメリカの潜り抜けてきた葛藤ぶりは、その中心性を構成すると同時に、世界に指導力を発揮させるうえでの電炉として作用してきた。ここは目に見えないボトルネックの働きだ。
著者は、そのような背景の1つとして、「国民国家の液状化」とそれへの疑念を提示している。さしあたり国民国家の歴史は意外に新しく、せいぜいのところ17世紀あたりまでにしか遡れない。宗教戦争の結果として、民族自決の原則や、資本主義、言語の統一など、いわば国家が発送電機関として作用し始めて以来である。
新たに巨大な変電所が建設されたようなもので、一方的なエネルギーの備給によって世が成立していた。いつしか世は線形に発展していくような楽観的な見方が支配していたのはつい昨日のことである。
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