「性善説」を誤解して日本人が受容してしまった訳 「どんな悪人も同情すべき事情がある」ではない
性善説は、古代中国の思想家である孟子(前372?~前289?)によって説かれた。「性」とは「生まれつき」という意味であり、「善」とは「倫理的」という意味である。つまり、「人間は生まれつき倫理的である」というのが性善説の意味になる。
これだと、何が違うのかわかりにくい。そこで、もう少し深掘りしてみよう。
まず、性が生まれつきということは、その後の生き方によっては、悪になることがある。
次に、「倫理的」(善)というのは、孟子によれば身の回りの人間関係において、①思いやり(惻隠)、②羞じ憎む(羞悪)、③譲り合い(辞譲)、④善悪の判断(是非)ができるということである。
つまり、孟子は「人間は生まれつき身の回りの人間関係に心を配り、正しい言動をとる能力があるものの、それは年齢を重ねるにしたがってダメになる場合がある」と言っているのである。
ここまで見ると、「すべての人は無条件に善人である」ではないことがわかる。
「仁」「義」「礼」「智」の四徳
性善説を説くことにどんな意味があるのか。
前述の「倫理的」(善)な四つの能力は「四端」と呼ばれる。これは①子供が井戸に落ちそうになっているのを見れば、自分のことのように感じ、タイムラグなく飛び出していく(惻隠)といったように、日常生活で誰もが自然とそのような気持ちを抱く能力であって、特別なことではない。
同じように②えげつない悪事を見て嫌悪感を持つ(羞悪)、③人の長所や美点を見て素直に尊敬する(辞譲)、④良いことと悪いことをひいき目なく判断する(是非)ことで、人間は社会をお互いに支え合い、つくっているのである。
そして、「端」とは端緒(とっかかり)という意味であるから、日常生活で四端を育てると、それが成熟してその人の人間性となり、「四徳」(四つの徳)へと成長する。
四徳は①家族から職場、地域、そして国家へと親身な思いをかけていく徳(仁)、②悪を排除し、正しさを実現する徳(義)、③立場や役割になりきって社会関係をつくる徳(礼)、④物事の意味や是非善悪が判断できる徳(智)である。
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