秀吉の天下統一に暗雲!家康を翻弄した東北の乱 東北で一揆が勃発、家康はどう対応したのか
ところが、その頃、奥州で新たな戦乱が起きようとしていた。1591年3月、南部家の当主・南部信直に対し、一族の九戸政実が反旗を翻したのである。これは「九戸一揆」と呼ばれている。
4月下旬には、新たな一揆を鎮圧するため、動員令がかけられた。5月下旬、家康は家臣へ出陣を命じた。自身は7月下旬に出馬する予定であった。
家康は7月19日に江戸を発つことになるのだが、筆者が所持している浅野長吉(長政)宛の家康書状からも、その間の家康の状況を垣間見ることができる。
その書状には「御状則中納言殿へ 為持進候 猶出陣之節 以面可申承候 恐々謹言 七月一日 家康(花押) 浅野弾正少弼殿」と記されている。
「(浅野長吉が出した)お手紙を中納言殿へ進呈(進上)しました。なお出陣したときに、お会いして話をうかがいたい」との意味である。
本書状には年号はないが、家康が秀吉に臣従したのは天正14年(1586)10月以降、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いまで。その間の7月に「出陣」と書く状況にあるのは、天正19年(1591)しかないので、年代が推定できるのである。
ちなみに、文中の中納言殿とは、豊臣秀次のことだ。この書状が書かれた7月1日現在、家康は江戸におり、秀次は奥州に進軍中だった。この書状から、家康と秀次、長吉(長政)が連絡を取り合っていたことがうかがえる。同年8月7日、秀次・家康・長吉(長政)・政宗が福島の二本松に集結。九戸攻めについての作戦会議をしたのであろう。
その後、家康は岩手県南部まで向かうが、九戸攻めには参加していない。その代わり、井伊直政が九戸攻め(8月23日)に参戦している。
豊臣方の軍勢は6万とも言われるのに対し、政実が城主であった九戸城に籠城していた兵はわずか5000。政実方は善戦するも、勝負は見えていた。
西へ東へ、家康は奔走
攻囲軍は、九戸氏の菩提寺の和尚を使者とし、政実の武勲を称え、婦子女や城兵の助命を条件に和議を勧告した。
9月4日に政実はこれを受け入れる。ところが、約束は反故にされ、政実は処刑、城兵や婦女子までが惨殺された。
こうして九戸一揆が平定されたこともあり、家康は江戸城に戻った(10月29日)。このように家康は奥州の動乱にも深く関与し、知行割という政治問題にも関与していたのだ。豊臣重臣・家康として、西へ東へ奔走していたのである。
(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら