秀吉の天下統一に暗雲!家康を翻弄した東北の乱 東北で一揆が勃発、家康はどう対応したのか

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氏郷は11月16日に一揆の拠点の1つであった名生城(宮城県大崎市)を攻め取って籠城し、安心して会津に帰るために、政宗に人質まで要求してきた。

家康は12月24日に、政宗に書状を送り、政宗の一揆鎮圧の功績を称賛している。それと比べると、氏郷の政宗への警戒と不信感は非常に高まっていたと言えるだろう。

秀吉は、コロコロ変わる氏郷の注進に戸惑った。氏郷が無事に会津に帰陣するまで、家康と豊臣秀次に対して出陣するよう命じることになる。

天正19年(1591)正月初めには、家康に秀吉の命令が届いたのだろう。ついに家康自らも奥州に向けて発つことになる。家康としては、氏郷の態度は、いい迷惑だっただろう。岩付(さいたま市岩槻)において、氏郷が福島の二本松に無事戻ったとの情報が届いたため、家康は江戸に戻った。

家康が江戸に着いたのは、1月13日のことであった。「伊達政宗謀反」の疑惑は解消されたものの、政宗は秀吉から上洛を求められる。政宗上洛については、家康と浅野長吉(長政)が担った。家康は、政宗上洛にあたり、人馬の供給を命じられている。

家康は、閏正月3日に江戸を出発し、同月22日に入京。政宗は2月4日に京に入った。

またもや国替えが命じられる?

実はこの頃、徳川家中には、家康が秀吉からまたもや国替えを命じられるのではとの噂が流れていた。江戸から今度は陸奥国へ転封される可能性もあったのだ。陸奥国の混乱を、家康に鎮定させるという意味での転封である。

結局、家康は陸奥国へ転封されることはなかった。「一揆蜂起の原因をつくった木村吉清は改易」「大崎・葛西領は政宗に与える」「伊達領の会津近辺の五郡は(蒲生氏郷に)与える」などの処置を秀吉は取ることになる。

このとき、政宗は知行(領地)分けについて、詳細な絵図を秀吉に進上したようだが、秀吉は絵図だけでは心もとないと感じたらしい。家康を奥州に遣わし、検分させる意向を示したようだ(3月中旬)。

政宗は4月末に京都を発ち、5月下旬に米沢に帰着した後、大崎・葛西一揆の完全鎮圧に向けて動き出すことになる。6月14日に、政宗は出陣した。家康は3月21日には江戸に着いたが、すぐに奥州に出馬することはなかった。

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