秀吉の天下統一に暗雲!家康を翻弄した東北の乱 東北で一揆が勃発、家康はどう対応したのか
一揆勢が蜂起したのが、10月16日のこと。その1週間後には、米沢にいる政宗のもとに一揆蜂起の情報が届く。政宗は一揆鎮圧のために、同月26日に出陣した。
同日、会津の氏郷のもとにも一揆蜂起の情報が届いている(氏郷は11月上旬に出陣)。家康は、氏郷からの知らせにより、11月初めに蜂起の情報を掴んだ。
家康は一揆の鎮圧のために、家臣の榊原康政を出陣させたという(12月中旬には、康政は福島の二本松に着陣か)。
これまでの一連の経緯を見ると、鎮圧のために家臣を出陣させた家康の素早い対応は、秀吉の命令ではなく、家康自身の判断だったことがわかる。それは政宗や氏郷も同様であった。
家康は奥羽を関東の隣国とみなしており、その動乱を見逃すことはできなかったと思われる。
家康は11月14日に、浅野長吉(長政)と江戸城で面会。長政は秀吉の名代とも言える立場にあり、直後に奥州に向けて発った。
そんな中で、氏郷は、秀吉に驚くべき情報を知らせた。「政宗逆心」。つまり、政宗に秀吉への謀反の疑惑があるというのである。
政宗謀反疑惑を知らせる書状は、12月初めには京都に到着したと思われる。氏郷は、一揆の背後に政宗がいるのではないかと疑っていたのだ。政宗は自らの手で一揆を鎮圧しようとし、氏郷に「出陣してくれるな」との書状を送りつけていた。
このことは、氏郷が政宗に対して不信感を強めた要因の1つでもあったのだろう。氏郷は政宗と戦うため、秀吉の出馬を求めていた。しかし、秀吉は出馬せず、家康が奥州への出兵準備をすることになる。これが、12月4日のことである。
政宗の謀反はあるのか、ないのか
氏郷が秀吉に働きかける中、政宗は、11月24日に一揆勢に攻囲された佐沼城(宮城県登米市)から吉清を救出していた。
これを受けて、さすがの氏郷も「政宗に謀反心はない」と秀吉に報告することになる。
家康も政宗に謀反心がないことを知り、安心したようだ。秀吉は「政宗謀反」との一報を受け、徳川諸将や石田三成、佐竹義宣、豊臣秀次らを出陣させようとしたが、「謀反心なし」との報告があったため、出兵命令を取り消した。
それでも氏郷は、政宗に対してまだ疑念を持っていたようで、秀吉に「政宗に謀反心あり」「やはり、なし」「あるかもしれない」などのように、二転三転する報告をしていたようだ。
その様子を秀吉の祐筆(文章や記録の作成を担う)である和久宗是は「まるで酒に酔ったようだ」と、政宗宛ての書状(12月28日付)で表現している。
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