「社長なのに会社ルール破る」文春創業者の破天荒 菊池寛「二度も学校から除籍」波瀾万丈な人生
菊池は1923年に、私財を投じて文藝春秋社を創業。雑誌『文藝春秋』を創刊する。創刊号には、菊池と芥川のほかに、今東光(こんとうこう)、川端康成、横光利一、直木三十五(なおきさんじゅうご)など合計19名が、執筆陣に名を連ねた。現代を生きるわれわれから見ればかなり豪華なラインナップだが、当時の文壇においては、菊池と芥川以外は無名の作家だった。
そうして菊池の個人雑誌からスタートした『文藝春秋』は大反響を呼び、飛ぶように売れた。3年後には旧有島武夫邸を借りて菊池の自宅から分離している。しかし当時の文藝春秋社は、「社」を名乗ってはいるものの、一般の会社からはほど遠いルーズな環境だった。
午後5時から出社するようなツワモノもいれば、将棋やピンポンをして遊んでばかりの社員もいた。あまりにゆるすぎるので、菊池は出社時間の厳守と、仕事中の将棋とピンポンの禁止を社員たちに命じている。
怠けていた社員たちもこれで気が引き締まった、かと思いきや、誰よりもこの禁止令でストレスを感じていたのが、ほかならぬ社長の菊池寛だった。
「将棋禁止令」を自ら作って自ら破る
というのも、菊池自身いつも夕方の4時から5時に出社していたのだが、社員を叱った手前、早く出社せざるを得ない。加えて、大好きな将棋やピンポンを禁じたのもつらかったらしい。
社長室で好きな将棋を指すこともできない菊池は、煙草を1日に何箱もふかしながら、不機嫌そのもの。あまりに沈鬱な社長の表情に、ある社員が思い切った行動に出る。
菊池に向かって、人差し指に中指を重ねて将棋を指す仕草を見せ、「一番いかがです」と誘ったのである。菊池はすぐにその誘いに飛びつき、将棋がはじまったとか。おいおい……。
自ら作ったルールからも逃げてしまうとは、あきれるばかりだが、そんな遊び心は雑誌作りに存分に活かされた。菊地は『文藝春秋』を大きく育てていくことに成功したのである。
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