「社長なのに会社ルール破る」文春創業者の破天荒 菊池寛「二度も学校から除籍」波瀾万丈な人生
香川県の没落士族の家に生まれたため、生活の貧しさから修学旅行にも行かせてもらえなかったが、それでも菊池は生き生きとした青春時代を送っていた。
ところが、中学卒業後、東京の高等師範学校に進学すると、状況が一変する。学校の校風が非常に厳格で菊池の性格と合わなかったのである。菊池は、教科書を持ってこなくなったばかりか、授業を抜け出しては、母譲りの芝居趣味に走った。学校側は観劇そのものもよしとしておらず、再三にわたって注意するが、改善は見られない。
ある日、授業をさぼってテニスをしているところを先生に見つかってしまう。詰問された菊池は「頭が痛くて休んだが、テニスをすれば治ると思った」と、ヒドい言い訳をしている。反省が見られない菊池に学校側も業を煮やし、とうとう除籍処分が下されることになった。
大学に行かず、養子縁組も解消
将来の見通しが立たなくなった菊池は、地元の素封家に見込まれて養子に入って学費を確保したうえで、明治大学の法科に入学する。だが、いかんせん法律に興味が湧かなかった。熱意は3カ月も続かず、学校に行かなくなり、養子縁組も解消されてしまう。
どうも真正面から物事と向き合うことができず、結局は逃げてしまう菊池。その後、なんとか挽回しようと猛勉強して一高(現在の東京大学)に入学するが、1年で退学している。ただ、このときばかりは菊池に非はなかった。友達の窃盗をかばい、自ら罪をかぶって退学の道を選んだのだ。
これは、のちに「マント事件」として文壇で知られることになる。不器用でうまくは立ち回れなかったが、菊池にはそうした一本筋が通ったところがあった。
菊池は新聞記者として働きながら、小説も執筆。文壇デビューを果たすと、『時事新報』を退職して、友人の芥川龍之介による働きかけで、『大阪毎日新聞』の客員となっている。
すでに専業作家としてやっていけるだけの実績は十分にあったものの、菊池は慎重だった。貧乏で困窮した幼少時代が忘れられなかったからだ。そんな菊池だからこそ『真珠婦人』や『父帰る』で流行作家になり十分すぎる成功を収めると、こんな思いを抱くようになる。
苦労人の若い作家のために、原稿を書く場を与えられないか、と……。
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