英語の名人「新渡戸稲造」地道で泥臭い英語習得法 東京人よりイギリス人と話すほうが楽だった

✎ 1 ✎ 2 ✎ 3 ✎ 4
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

教える内容にはツッコミどころが多かったものの、その医師をきっかけに英語への関心を持った稲造は、東京でもっと英語を勉強したいと思うようになったといいます。わずか9歳のころに親元を離れ、叔父の助けを借りて上京しました。

そこで稲造を待ち受けていたのが言葉の壁でした。盛岡出身の稲造が話す東北の言葉が、東京の人には全く通じないのです。当時の日本にはまだ標準語が存在せず、あの板垣退助も、国会開設の趣意書を英語で書いたというほどだったので、稲造も英語を使うしかありませんでした。東京の人と話すよりも、イギリス人と英語で会話するほうが楽だったため、とにかく積極的にイギリス人に英語で話しかけたといいます。

上京してすぐに入った築地英語学校では、海軍からの脱走兵や輸入品店を解雇された店員などが英語を教えていました。さらに、その後入学した共慣義塾でも、英語の発音を知らない日本人が教鞭をとっていました。英語の名人と称される稲造も、東京英語学校(現在の東京外国語大学)に入学するまでは、よい教師には恵まれなかったようです。

英単語は一日三語!

稲造が実践した英語学習法の一つが「一日三語、英単語を覚える」という方法でした。 英語学習は継続してこそ実を結ぶのであって、一度にたくさん学ぼうとすると挫折してしまいます。晴れの日であろうが、雨が降っていて気分が乗らない日であろうが、この方針は変えず、例えば「今日は6語覚えたので明日は休もう」というようなことも禁止としました。

稲造が卒業した札幌農学校には、初代教頭クラーク博士が残した厳しい規律がありました。生徒が飲酒や喫煙に走ることを危惧したクラーク博士は、自らアメリカから持参した数ダースのブドウ酒を廃棄し、禁酒・禁煙を実行することで、生徒の模範となったのです。稲造が入学したとき、すでにクラーク博士は帰国していましたが、生徒たちは「禁酒・禁煙の誓約書」に署名することが義務づけられたそうです。こうして、札幌農学校時代に自らを律する心が鍛えられていたので、稲造は一日三語主義を貫くことにも抵抗がなかったのでしょう。

一日三語といえども馬鹿にはできません。一日三語を確実に続けていけば、語彙量は1年で1,000語に到達するのですから。さらにもう1年続けることで約2,000語を獲得することになります。この2,000語というのは、英字新聞などを読んだりする分には問題のない語彙量であり、ニューヨークでバリバリ働く紳士でも4,000語を知っていれば偉いほうだと稲造は言います。

次ページ稲造が実践した「一日三語主義」を実行!
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事