たとえば、高名な教育者の講演会があって、そこに参加した人から、会場で配られたアンケート用紙に次のような感想が書かれていたとします。
じつはこれは、ぼくが実際に見かけた文章に少しだけ手を入れたものなのですが……、これを読んで、どのように感じるでしょうか?
文章として“それらしさ”のようなものはあります。言葉づかいもていねいで個々の文の意味は理解しやすいかもしれません。
ただ、残念ながら、「書き手がなにを伝えようとしているのか」はよくわかりません。では、同じ講演会の感想として、次のような文章が寄せられたらどうでしょうか。
けっしてうまい文章ではありません。内容も断片的で、情報量も十分ではないかもしれない。でも、「伝えようとしていること」はちゃんとわかります。
「その教育者の話を聞いたことで、これまで自分が人を大切にしてこなかったと気がついた。今後はそんな自分を改めていきたいと思っている」という書き手の思いは理解できるし、納得もできる。共感を覚える人も出てきそうです。
前者は、いってみれば美文です。でも、「伝わらない」。
一方の後者は、どちらかといえば悪文ですが、「伝わる」。
ここで注目したいのは、なぜ悪文でも「伝わる」のか、です。
伝えることがイメージできるか
その最大の理由は、書き手の頭のなかで「伝えるべきこと」がはっきりイメージされていることにあります。書き手が「伝えるべきこと」を明確に意識できていると、なにを書くべきか、どう書くべきかといった判断がつきやすく、必要な情報を見きわめることができるようになります。
その結果、少しくらい表現が雑でも、構成が整っていなくても、盛りこむべき情報がきちんと盛りこまれた文章になりやすい。だから、伝わりやすくなるのです。
一方、書き手のなかで「伝えるべきこと」が曖昧なままだと、なにを書けばいいのかがわからない状態です。まさに先ほどの前者の例がそうですが、そうなると、どこかで聞いたような耳ざわりのよさそうな文言やとりとめもないこと、あるいは型どおりのあいさつなどを書き連ねてしまいがちになります。
書き手が「なんとなく」としかわかっていないことは、言葉をつくしても「なんとなく」としか伝わりません。
自分が「はっきりわかっていること」だから、「はっきり伝える」ことができるのです。伝え方のいちばんの基本はここにあります。
なぜ「伝えるべきこと」を「はっきりわかっている」と、「はっきり伝えられる」のか。「伝える」という行為を読み解きながら、もう少しだけ詳しく説明しましょう。
私たちは、だれかになにかを伝えるとき、かならず〈表現物〉をつくります。文章もそうですし、話して聞かせるお話もそう。デザイナーがつくるロゴマークやポスター、クリエイターがつくる動画などもそうです。
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