佐藤二朗「アヒージョを最近知った僕が思うこと」 人は一概に「○○な人」と色分けできないな、と思った話
僕の知り合いの舞台演出家に、とんでもなく、本当にとんでもなく、財布や携帯を置き忘れる人がいる。あらゆるところに置き忘れる。自宅はもちろん、稽古場、居酒屋、タクシーの車内、電車の座席、果てはバス停に置き忘れる。あまりに頻繁に置き忘れるので、何かのギャグかと思ったが、どうやらギャグではないらしい。本人は至って真剣に悩み、なんとか改善したいと思っている。で、その矢先にまたどこかに置き忘れる。「もう泣きたいよ」とは本人の弁。
ところがこの人、こと役者を演出すること、芝居を観る眼、は、ちょっと異常なくらい発達している。もう、ほとんど超人レベルだと僕は思っている。
また、別の旧知の演出家は、繊細な神経も持ち合わせてるのに、こと「人に批判されること」に関しては、まるで気にせず、気にせずどころか、悦びに変えている節があり、こう書くと少し変態みたいだが、多分変態なのだろう。
批判を自身の力の源にしているというか、むしろ燃料にしている感じ。先日、このことに関してその人と話したが、「おそらく、批判を気にする神経が切れている。あるいはその神経そのものが無い」という結論(?)に至った。
かといって、その人が「図太い」かというと、そうでもない。他の人が見ないところを見て、他の人が気にも留めないようなことを気にして、他の人が考えもしないことを考え込む。
人は一概に「○○な人」と色分けはできない
つくづく、人は一概に「○○な人」と色分けはできないな、と思う。「繊細な人」といっても、あるところには凄く繊細で、あるところでは全くズボラだったりする。「物知りな人」と一概にいっても、あるところには凄く知識が深く、あるところでは全く物を知らないということもある。
わたた。自分が無知であることの言い訳みたいな結論になっちゃった。繰り返すが勿論、無知は恥ずべきことだ。改善するよう努めます。これホントに。ただまあ、色んな人がいるし、色んな人がいていいし、色んな人がいる方がなんつーか、愉しいよね、てな感じでどうかひとつ。さ、今夜の晩酌は、アヒージョにするかね。
(初出:AERA dot.2018/09/16)
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